八王子では恐ろしい伝説が語られている。真夜中に彷徨う魔物の伝説である。その魔物は。昭和の初期まで八王子の街を夜間に徘徊したという。人々はその怪物をこう呼んだ。
―――夜行さん
普通、夜行さんというと、馬に乗った一つ目の鬼を想像するかもしれない。だが、八王子の夜行さんは違った。
―――美女が夜間に徘徊するのである
この美女はあの心霊スポットとして名高い八王子城にゆかりのある女性であるという。豊臣秀吉への屈服を嫌った北条方の城としてこの城は知られているが、合戦の当時、主力の兵力は本拠地である小田原城に詰めており、城には城主の家族や城代、農民など千人程度の非戦闘員しかいなかった。
故に豊臣方の精鋭の攻撃の前には、敢え無く落城してしまった。犠牲者たちが身を投げた滝には三日三晩血が流れ続け、修羅場と化したという。この城が落ちる寸前、留守居役の家臣たちは、城主の姫君だけでも逃がす段取りをした。
「総攻撃の直前、我らは、もはや持ちこたえることはできぬ」「そうよの、姫だけでも無事にお逃げいただきたい」
家臣たちは、闇夜にまぎれ、姫を一頭の馬に乗せた。城内でも最高の名馬と呼び声の高い優秀な馬であり、幾多の合戦を潜り抜けてきた軍馬であった。
「この馬なら、姫さまを敵の囲みから逃がしてくれよう」
家臣たちは、馬上の姫さまに声をかけた。
「姫さま、この馬にしがみつき、決して離れてはなりませぬ」
「おまえたちは、どうなるのです」
すると家臣たちは笑った言った。
「我らは、城を枕に討ち死にしましょう」
そう言うと、馬の尻を叩いた。もの凄い勢いで駆け出していく馬。闇夜を切り裂くように走っていく。
「なんだぁ、この馬は」
敵方の陣中を走る抜けていく。その動きは真に神馬のようであった。敵方も突然の馬の侵入に驚きを隠せない。
「このまま逃がしてなるものか」「馬上に誰か乗っているぞ、捕らえて捕虜にしろ」
敵方も馬上の姫の姿を見逃さなかった。
「怪しい馬だ、止めてやる」
一人の武士が太刀を抜き、すれ違う馬の首をはねた。鮮やかな鮮血がほとばしり…。
―――――馬の首が落ちた。
だが、切断面から血を吹きながらも、馬は走りつづけた。陣中を突破し…八王子の町を突破し…そのまま、首なし 馬は駆け抜け、行方不明になった。
それから、数百年が過ぎた昭和初期の事。毎年 八王子城が落城した6月になると、ある町内で真夜中に足音が聞こえた。闇夜に響き渡る足音。ちょうど、その町内は豊臣方の本陣があった一角に該当した。
「タッタカ タッタカ タッタカ」
…馬の足音である。
6月に入ると、落城した23日まで繰り返された。
「あれは、いったいなんだろう」「やっぱり、八王子城の霊だろうか」
人々は噂したが、誰も怖くてその真相は確かめられなかった。ある夜の事。一人の若者が戸を少しだけ開けて、外を確認していた。
「今夜こそ、正体を見破ってやる」
彼は人間の悪戯だと思い込んでいた。文明の20世紀に幽霊なんぞいやしない。彼は馬の足音を立てる人騒がせな輩をひっ捕ま えようと潜んでいたのだ。
「早く来いよ、悪戯者め」
すると、夜霧の彼方から蹄の音が聞こえてきた。
(来るか…)
若者はじっと音のする虚空を睨むと、身構えた。すると、霧を掻き分け馬が現れた。しかも首が無い馬が静かに歩いていく。
「…ひぃ」
若者は小さく嗚咽した。胃の中のものが全て吐き出されるような恐怖感を覚えた。馬はゆっくりと、移動していく。馬上には雪のように白い美女が、無表情のまま座っていた。
「あああああぁぁぁ、ゆっ、幽霊だぁ」
若者はその場で失禁した。
口を開けたまま、ガクガクと全身を震わす。
その前を足音以外は無音のまま…。
――――首なし馬と美女が通り過ぎていく。
これが、昭和の初期まで語られた「八王子の夜行さん」である。
(ミステリーニュースステーション・アトラス編集)