ラッシャー木村は、国際プロレスや全日本プロレスなどで活躍した日本のプロレスラー。
少年時代から力道山に憧れプロレスラーになることを目指していたが、高校を中退して一度相撲部屋に入門している(高校ではポール牧と同級生だった)。
これは、兄の知り合いであった宮城野親方にちゃんこを奢ってもらったのが入門する動機になったと言われている。一方では、プロレスラーになるための体力づくりとして一旦角界に入ったとも言われる。
1970年、アメリカでの武者修行を終えて凱旋帰国後、大阪府立体育館において”日本で初めての金網デスマッチ”を開催。不敗という無敵さを誇ったことから、「金網の鬼(または金網デスマッチの鬼)」の異名が定着した。
しかし、なんといっても彼の最大の魅力は、マイクパフォーマンスにあった。その独特のゆったりとした間とユーモアあふれるマイクパフォーマンスは、時事ネタ、観客への気遣い、同僚レスラーいじりなど、バリエーションに富んだものとなっていた。
このスタイルの始まりと言われているのが、1981年に起こったとある興行での出来事。
9月23日、当時都内大田区の田園調布にあった田園コロシアムにて新日本プロレスの興行が開催された。その際、アニマル浜口を連れて現れた木村がリング上でアナウンサーからマイクを向けられ、開口一番「こんばんは」と挨拶。
殺伐としたプロレスの雰囲気を完全にぶち壊した伝説の挨拶となり、拍子抜けした観客から失笑を買うこととなった。
しかし、彼本人はウケるためといった意図は全くなく、まずは来てくれた観客の皆さんに丁重な挨拶をしなければという極めてまっとうな理由から発せられたものであった。
これを聞いた浜口や寺西勇は「おっとう(木村の愛称)!あれ(挨拶)はまずいよ!」と木村を窘めたものの、木村は「挨拶は当然だろう!どうして笑われなければならないんだ!?」と、むしろ御冠であったという。
さらに、彼のこのマイクパフォーマンススタイルの決定打となったのは、1988年8月29日のこと。
この日、武道館にて木村とジャイアント馬場のシングル戦が行なわれた。木村は、馬場とシングルをやっては負けての繰り返しであり、「おい馬場!俺と闘え!」と挑発し、終わりには「おい馬場、今日俺は勝とうと思って来たけど負けちゃったよ」などと会場の笑いを誘っていた。
しかし、この日に彼が放った言葉は、「おい馬場、これだけ闘うとお前が他人とは思えないんだよ。アニキって呼ばせてくれ」といったものであった。木村は、そもそもヒール役であったこともあり、観客の憎悪を一身に浴びてきた。
それが、この馬場への「アニキ」発言が彼の素顔をのぞかせたものとして、観客も声援で後押しをし、これによって彼のマイクパフォーマンスは確立されることとなった。
なお、その後木村は馬場と「義兄弟タッグ」を結成するようになり、年末の最強タッグリーグにも参戦したという。
【参考記事・文献】
・https://x.gd/1Q2fh
・https://number.bunshun.jp/articles/-/825694
・https://matomehub.jp/b727ana/page/7015
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【文 ZENMAI】