葛飾北斎は、江戸後期に活躍した浮世絵師。日本の漫画史を紐解く中で欠かせない人物の一人であり、およそ90年の生涯で描いた絵は3万点、ジャンルも美人画から妖怪画、挿絵まであらゆるものを手掛けた生粋の絵師として知られる。
彼を一言で表すとすれば、「絵以外まるでダメ」がピッタリと当てはまる。よく知られているのは、生涯に93回も宿替えしているというものだろう。
引っ越し魔として知られるベートーヴェンの79回を遥かに超えており、その理由もゴミ屋敷となった末に限界を迎えたら引っ越すという有様だった。1日に3回引っ越したという逸話まである。
次から次へと絵の依頼がくる売れっ子絵師だったことは確かであるが、決して裕福だったわけでもなく、むしろ生活は貧困そのものであった。最大の理由は金銭の管理がきわめて杜撰だったためであり、もらった原稿料は袋ごと部屋に放置してしまい、集金の際はその袋ごと投げて渡すという有様だったという。もはや、貯金という考え方も無いような状態と言えるだろう。
その肝腎の絵の仕事についても、たびたび依頼者とケンカをしていたという。ある時、人気作家・滝沢馬琴の本の挿絵を描いていた際、馬琴が「草履を口に加えた人を描いて欲しい」と注文したところ北斎は、「てめえが草履をくわえてみやがれ!」とキレて大喧嘩になった。
言うなれば、自分の描きたい内容のものしか描きたくないというスタイルを貫いていた結果だと言えるが、別の小説家に対しては「お前の本が売れているのは俺の絵のおかげだ!」と言い放ち、絶交されてしまった逸話もあるという。
ところで、この葛飾北斎という名前は彼の本名ではない。出自も詳しくわかっていないため、本名にも(川村鉄蔵、中島鉄蔵など)諸説あるが、葛飾北斎はあくまで絵師としての号、すなわちペンネームだ。
実は葛飾北斎と名乗っていた時期は1805~10年のわずか5年間だけであり、通常北斎の作と紹介される『富岳三十六景』(1820)も、当時は「為一」の号を使用していたため「葛飾北斎を名乗った時期の作品ではない」といったほうが正確だろう。
北斎という名前が特に広まった理由の一つは、彼自身が北斎を名乗って以降「北斎改め」という言い方を多用していたからだと言われている。
生涯で30ものペンネームを持っていたとすら言われる北斎。その内容も、「春朗」「宗理」「戴斗」など多岐にわたり、これらを単独もしくは合成させて名乗っていたという。
晩年に使用していたという「画狂老人卍」や、春画の際に用いた「鉄棒ぬらぬら」はあまりにも有名だろう。中には、海外の博物館で作者不明とされていた浮世絵作品が、実は北斎の別名義作品だったことが判明したというケースもある。
【参考記事・文献】
・https://diamond.jp/articles/-/344258
・https://amaru.me/trivia/katsushika-hokusai/
・https://iki-toki.jp/4856/
・https://leisurego.jp/archives/263732
・https://leisurego.jp/archives/263732#i-4
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【文 イトフゆ】
画像 ウィキペディアより引用





