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「田上明」相撲部屋との確執を生み、馬場からも怒られたほどの練習嫌い

田上明(たうえあきら)は、大相撲力士出身の元男性プロレスラーである。平時はのんびりとした言動でありながら、タイトルマッチや試合には突如として”恐ろしい力”を発揮する様から、「田上火山」と呼ばれ人気を博した。

1990年代には、全日本プロレスの”四天王”の一人に数えられ(ほか三沢光晴・川田利明・小橋建太)、新日本プロレスの”闘魂三銃士”(武藤敬司・蝶野正洋・橋本信也)と人気を二分していたと言われている。

中学時代は、陸上部で砲丸投げや走高跳びで体を鍛え、柔道は初段、野球でも外野手として活躍、高校に入ってから相撲部に入部し、2年生時にインターハイ個人3位入賞と、その経歴を見ても彼自身がスポーツ万能であったことが見て取れる。

高校3年生の頃。押尾川部屋にスカウトされて1980年1月に初土俵を踏み「玉麒麟」の四股名で活躍する。安定した成績を残し、また抜群の活躍から「角界の玉三郎」とも称された彼であるが、押尾川親方との確執もあり、20代後半で部屋を飛び出し力士を廃業してしまった。

トラックの運転手でもやろうかと考えていた矢先、知人だった6代目三遊亭円楽(当時・楽太郎)がジャイアント馬場に声掛けし、このすすめもあって全日本プロレスに入団することになった。この縁もあり、1989年に田上が結婚した際にその式の司会を当時楽太郎の弟子であった伊集院光がつとめたという。

そもそも、なぜ押尾川親方と確執が生じたのかというと、田上自身が非常に稽古嫌いだったことが影響していたようである。田上の稽古・練習嫌いは有名だったようであり、稽古後に1合どんぶりで3杯食べるというノルマも、ズルして少なく盛っていたこともあった。

プロレスに転向したものの、そうした練習嫌いは相も変わらず、加えて彼自身いわく憧れて入団したわけではないという意識もあり、食い扶持のためにやっている”職業レスラー”感覚だったという。そのため、馬場に「なまくらだ!」と怒鳴られることもあったようだが、それでもマイペースを貫いていたという。

田上の練習嫌いを象徴するようなこんなエピソードがある。ある日、馬場がゴルフ帰りに田上の自宅を訪れた。その時、「そういえばアレはどうしたの?」と馬場は彼に尋ねた。アレとは、馬場が彼にあげたトレーニング用具のことであったが、練習嫌いの田上は譲り受けてからそれっきり放置状態だった。

慌てた彼は急いで用具を持って見せたのだが、それを見た田上の息子が、「お父さんが使ってるの初めて見た!」とその場で暴露してしまい、結果田上はこっぴどく馬場から怒られてしまった。

【参考記事・文献】
https://x.gd/PNpZ8
https://www.bbm-japan.com/article/detail/26853
https://dic.pixiv.net/a/%E7%94%B0%E4%B8%8A%E6%98%8E
https://wanibooks-newscrunch.com/articles/-/4783
https://kids-future-navi.com/2021/03/steak-champ/

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【文 ZENMAI】

画像『飄々と堂々と 田上明自伝