ハーリー・レイスは、アメリカの元プロレスラー。70年代から80年代にかけて、当時世界最高峰と呼ばれたNWA世界王座にて通算8回に渡りヘビー級王座を獲得した実績から、「ミスター・プロレス」と称された。
幼い頃からプロレスラーを志し、10代前半にして当時ヨーロッパ最強と謳われたプロレスラーのスタニスラウス・ズビシュコの指導を受け、15歳でサーカスのカーニバル・レスラーとしてデビューを果たした。
これはいわば力自慢の見世物興行であったが、彼自身のプライベートでの喧嘩強さなどはよく話題に上がっていたため、当時から力強さには定評があったようだ。
1960年に通常のプロレス興行へ進出し、その後に先輩レスラーであるラリー・ヘニングと出会い、タッグチームを組んでタッグ王座を獲得、その後も王座を巡って抗争を繰り返していき、若くしてトップスターへの道を切り開いていった。
ところで、日本では彼を「美獣」という異名で称することが多い。それは、彼のリングネームが”ハンサム”ハーリー・レイスであったことに由来している。
ずんぐりとした体型に強面であるにもかかわらず、なぜ「ハンサム」というニックネームが付けられているかについては、たびたび話題にあがっている。
故意に逆の表現をすることでキャラクターを印象付けようとする意図から、あえてハンサムとつけたのではないかとする意見もあるが、実際は先のタッグチームに関係している。
両者は、この時”プリティボーイ”ラリー・ヘニング、”ハンサム”ハーリー・レイスと名乗り、強面ギャングの親分のような風貌だった。
実は、このハンサム(と相方のプリティボーイ)とは30年代のギャングの愛称にあやかったリングネームであり、いわゆる美男の意味でのハンサムでは無い。その意味で、「美獣」という表記は誤訳だったとも言えるかもしれない。
1973年からは、ジャイアント馬場率いる全日本プロレスを主戦場として、看板外国人レスラーとして数度来日を果たしている。日本でも防衛線を行ない、82年には、馬場のPWF王座とジャンボ鶴田のUNヘビー級王座にも挑戦しベルトを獲得している。
レイスは、ジャイアント馬場とは生涯のライバル関係であり、また強い信頼関係を築いていたという。
あるインタビューにて「今まで一番受け身がうまかった選手は?」と問われた際に、馬場は真っ先にレイスの名を挙げており、また若い選手には「受け身はレイスを見て勉強しなさい」と説いていたという。
馬場が唯一一緒に飲んだことのある外国人選手でもあったレイスだが、時にはこんな”事件”もあった。
レイスが最前線を退いたあとのある日のこと、彼から国際電話で一本の電話がかかってきた。聞くと、湖でボートの事故を起こしてしまい、賠償金を貸してくれないかというものだった。
頼まれた馬場はその通り金を貸すことにし、レイスは次回来日する時にギャラで返すつもりだったという。ところが、結局その後レイスが来日することは一度もなく、借金が残ったままになってしまった。
【参考記事・文献】
・https://x.gd/3DxdC
・https://x.gd/YxJlX
・https://www.tokyo-sports.co.jp/articles/-/88490
・https://www.tokyo-sports.co.jp/articles/-/316314
・https://www.tokyo-sports.co.jp/articles/-/153339
・https://ameblo.jp/pro-moto/entry-12501302326.html
・https://w.atwiki.jp/aniwotawiki/pages/42592.html#footnote_foot_1
・https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1477051779
・https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10258476365
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