極道コンビとは、グレート小鹿と大熊元司の2名によるヒールポジションで活躍したプロレスのタッグチームの名称だ。
小鹿は80歳という年齢でなお現役で活躍しているが、大熊は1992年に急性腎不全で死去している。力道山の創設した日本プロレスにおいては、上田馬之助、林牛之助、高崎山猿吉など、動物の名前をリングネームに含めたレスラーがいくらか存在していた。彼らはあくまでリングネームであり本名ではなかったが、偶然にも小鹿と大熊に関しては本名にそのまま動物の名前が含まれていた。
因みに、小鹿は正確に言うと「こじか」ではなく「こしか」という読みであることがのちに公表された。
両者によるコンビは1967年に初めて結成された。日本プロレス在籍時、共に遠征のため渡米し、「サイジング・サンズ」というコンビ名を名乗り各地で活躍。テネシー州、ジョージア州のタッグ王座などを獲得するものの、大熊が都合に単独帰国したためアメリカに残った小鹿がシングルプレイヤーとして活動を継続。ヒールレスラーとして活躍するようになり、試合ごとにマスクを変え「千の顔を持つ男」と称されたメキシコのレスラー、ミル・マスカラスとの金網デスマッチで注目を集めることとなった。
小鹿によれば、この時代は米国内でも反日感情が特に強かった時期であり、しかもヒールで活躍していたということから、卵が投げつけられたり、車のタイヤがパンクさせられていたりと悩みは尽きなかったという。一方、遠征中の大熊は日程に「OFF」と書いてある日を休日だと思わず「OFF」という町に営業が入ったと勘違いしその名前の町を探した、試合のギャラでもらった小切手の換金の仕方がわからず冷蔵庫に全て入れっぱなしだった、というような逸話がある。
小鹿の帰国と再度大熊の渡米など入れ違いや、小鹿が日本プロレス残留、帰国した大熊が旗揚げされた前日本プロレスに参加したことでコンビは一時解散となった。その後、日本プロレスが崩壊したことによって小鹿が全日本プロレスに移籍し、改めて小鹿と大熊の両者によって1976年に「極道コンビ」が結成された。
極悪コンビは、アジアタッグ王座を獲得するといったように、一時代を築く存在として話題となった。
両者は共に力士出身でありながらそのファイトスタイルは真逆であり、殴る蹴る掻き毟るという小鹿と体重を乗せての頭突きという大熊のスタイルは、まさにそれぞれの名に相応しいものであったと言えるだろう。
コンビでの活動中、計4回のアジアタッグ王座を獲得した彼らはアジアタッグの代名詞的存在と言われるまでになったが、その一方で他団体との対抗戦や初物の外国人レスラーの力量を測る、いわば番人のような役割をミッションとして任されていたという。
そんなコンビは、1988年に小鹿が一時引退をしたことで解散を迎えることとなる。小鹿が引退後プロモーターなど事業家としても活躍を展開していく一方で、大熊が急性腎不全によって1992年に亡くなったため、極道コンビは二度と再結成されることはなかった。大熊の享年は51歳とあまりにも若い旅立ちであった。
【参考記事・文献】
「小鹿、早く帰ってこい。会社を改革しよう」“プロレス界の生き字引”グレート小鹿がアントニオ猪木と飲み明かしたLAの夜
https://number.bunshun.jp/articles/-/852027
グレート小鹿
https://dic.nicovideo.jp/a/%E3%82%B0%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%88%E5%B0%8F%E9%B9%BF
大熊元司さんは米国遠征でOFF(休日)を勘違いして地図でOFF町を探した
https://www.tokyo-sports.co.jp/articles/-/216175
一世を風靡した G小鹿と大熊元司“極道コンビ”隠されたミッション
https://www2.myjcom.jp/special/tv/thema/pro-wrestling/column/detail/20240812.shtml
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【文 ZENMAI】