プロレスラーとして活躍した上田馬之助は、頭髪を金色に染めたその姿から「まだら狼」「金狼」などの異名を持っていた。力道山門下の直弟子の一人で、ジャイアント馬場やアントニオ猪木の同期生であった彼は、長きに渡りヒールとして活躍していたことでも知られている。このリングネームは、幕末に存在した同名の剣豪に由来しているという。
190cmを誇る体格を持ち、元々角界出身であったこともあって実力は相当のものであった。しかし、馬場や猪木のような強烈なスター性に恵まれず「地味に強い」という印象が先立ち、彼の試合ではその地味さから観客が眠ってしまうこともあったという。そのため、当時は「眠狂四郎」というあだ名で呼ばれていたこともある。
1976年に国際プロレス所属のラッシャー木村に挑戦を申し入れ、同年6月での対戦でIWA世界ヘビー級王座を奪取するも、翌月のリターンマッチが没収試合となってしまいタイトル剥奪の処分が下された。だが、この国際プロレスへの参戦が彼にとって契機となった。
ここから過激かつ悪辣な反則攻撃を持ち味にする悪役レスラーに転身、日本でも当時珍しかった金髪に染め上げるなど、一変してその知名度を大幅に引き上げた。因みに、上田が国内初の悪役専門レスラーである。
シングルマッチの他、新日本プロレスのタイガー・ジェット・シンをパートナーとした悪役コンビ「凶悪タッグ」の活躍でも、様々な団体を震撼させていった。1986年には、46歳という高齢の身でありながらも悪役を貫き、親子ほども年の離れた前田日明を圧倒するなど話題を呼んだ。
なお上田と言えば、1971年の密告事件を思い起こす人も多い。この年の11月、猪木が日本プロレスのクーデターを企てたとして除名、追放処分となる事件が勃発。幹部による不正を追究し、会社を正常化することが目的であったと言われているが、この計画を幹部に密告したのが上田であったと言われている。
この上田の密告によって計画が発覚し、猪木の計画は乗っ取りであると判断されることとなったが、上田の証言によれば、密告したのは馬場であり自身はその責任をかぶったものであったという。その証拠となるメモを有しているということであったが、結局このメモが公開されることはなかった。
さて、そんなヒール役としての地位を確立させた上田であるが、根は柔和な人柄であったために「実はいい人だ」という逸話も多く残されている。
リング外のファンサービスは真摯に対応しており、児童福祉施設の慰問に積極的に参加をしては「上田のおじちゃん」などと呼ばれ親しまれた。
ある時、深夜に出待ちしていた中学性によって盗撮されていたことに気付くと、彼は叱りながらもその場で中学生の自宅へ電話し、「責任もって送ります」と親に伝えた。「写真を撮りたいときは相手にお願いするんだぞ」と中学生を諭し、本当に自宅まで送り届けたという。
こうしたリング上とプライベートのギャップから、たびたび取材を申し込まれることもあったが「イメージが崩れるだろ」と頑として断り続けたという。
1993年、移動中の交通事故に遭遇。一命は取り留めたが、重篤な半身不随となってしまった。その際、運転手であった人物が亡くなってしまい、病院でその方を受けた上田は、「俺が死ねばよかった」「なんで若い奴が死ななきゃいけないんだ」と嘆き悲しんだという。
ヒールとして多くのプロレスファンから憎まれ役となっていた彼であるが、その義理がたい性格や人の好さから大いに親しまれた彼は、2011年に71歳でこの世を去った。
【参考記事・文献】
上田馬之助
https://dic.pixiv.net/a/%E4%B8%8A%E7%94%B0%E9%A6%AC%E4%B9%8B%E5%8A%A9
猪木に〝車中イタズラ〟の主は上田馬之助 伝説の武道館大会で知られざる「第0試合」
https://www.tokyo-sports.co.jp/articles/-/177210#goog_rewarded
日本最凶のヒール王 壮絶な覚悟とプロ意識/上田馬之助【俺達のプロレスラーDX】
https://ameblo.jp/jumpwith44/entry-12119283145.html
上田馬之助はいい人だった!死因は事故?最強伝説もある!
https://purores.site/archives/4162
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(黒蠍けいすけ 山口敏太郎タートルカンパニー ミステリーニュースステーションATLAS編集部)