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反日感情を逆手に取った大ヒール、日系レスラーの第一人者「グレート東郷」

グレート東郷は、第二次大戦後にアメリカで活躍したプロレスラー。

終戦間もない頃、国内の反日感情を逆手に取り、「卑劣なジャップ」を演じた悪役として活躍し、「世紀の悪玉」「日系の流血王」「血笑鬼」などの異名で呼ばれた。父が日本人で母が中国人とのことだが、詳細な出自は不明。

非白人の移民だった少年時代に、喧嘩に強くなりたいという思いからボクシングやレスリングに打ち込むようになり、1933年、プロモーターにスカウトされて22歳でデビューを果たした。この頃は本名のジョージ・オカムラで活動していたが、終戦後にリングネームを改めることになる。

当初は、アメリカの敵国である日本の象徴・東條英機にあやかった「グレート・トージョー」を名乗っていたものの、1950年代当時のアメリカでは現実に身の危険に晒されるほど刺激が強かったため、かつての大日本帝国海軍元帥・東郷平八郎にちなんだ「グレート・トーゴ―」に変更したという。事実、彼の腹部には激怒したファンによって腹部に複数個所刺し傷があった。

冒頭でも触れたように、彼のプレイスタイルは「卑劣」そのものであった。リングに上る際にまとう和と中華が融合したような着物からはじまり、リングの四方に撒く塩は相撲をイメージしたものではあるものの、試合が始まるや否やその塩は奇襲の目潰しの道具となり、履いている下駄で攻撃をくらわすというもの。この奇襲というやり口は、「真珠湾攻撃」を意識したものであるとも言われている。

相手を油断させてからの股間の蹴り上げなど、反則技を中心としたそのファイトスタイルは、当然のごとく米国人の憎悪を膨れ上がらせることとなるが、これこそが彼の求めていた反応であったことも事実である。レフェリーに注意をされても、ただただニヤニヤと笑うその様は、一層の不気味さも与えた。

そして、彼が反感を買っていたのはアメリカ人だけではなかった。それは、大々的に悪印象を抱かれることになったアメリカに住む日系人や日本人であった。東郷のファイトスタイルは、そっくりそのまま日系人や日本人のイメージと重ねられてしまったがゆえ、この事態も当然のことであった。

だが、それは逆に言えば彼の”上手さ”であったとも言える。流血は毎度のことではあるものの、それは狂乱ファイトによってもたらされるものではなく、むしろ試合の流れや間の取り方を上手く作り上げたために、観客の感情を引き出させることに成功したとも評されている。

さらに、それほどに悪役であれば、彼と対戦する選手には一層の期待が寄せられることとなる。東郷が勝利・反則をすれば大ブーイング、やられれば大歓声、憎き敵を演じれば演じるほど、観客は逆に東郷の術中にまんまとハマっていくことになっていったのである。

因みに、極真会館の創設者である空手家の大山倍達は、1950年代のいっとき、渡米期間中にグレート東郷の兄弟「マス・トーゴー」として活動していたことがあったが、実は大山が渡米した理由は、東郷の用心棒として雇われたためであり、その際にはプロレスの反則技である目突きと金的蹴りを徹底的に稽古させられたそうだ。

日本のプロレスとの関係では、1959年に初参戦し、その後もワールド大リーグ戦に例年来日をしていた。アメリカとは異なり、外国人の荒業にじっと耐えるという根性ファイトを売りにし、またブッカーとして多くの大物外国人を日本プロレスに送り込む窓口的な役目をも担うようになった。

他方、リング外では金の汚さで東郷の名はあまりにも有名であったという。その逸話の一つとして、アメリカにて武者修行中であったジャイアント馬場に対し、「練習をしたら腹が減って飯代が高くつくから試合の無い日は寝てろ」と言い放ったとの話があるという。

【参考記事・文献】
https://ameblo.jp/maskedsuperstar2/entry-12274388598.html
http://www.showapuroresu.com/bio/ku/great_togo.htm
http://realhotsports.com/pro-wrestling16.html
https://www.tokyo-sports.co.jp/articles/-/65287

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【文 黒蠍けいすけ】

画像 ウィキペディアより引用