ユダヤ自治州とは、ロシア連邦の極東部に位置する連邦唯一の自治州。ロシア各地に分散しているユダヤ人の独自領域を与えるという名目のもと創設された経緯があるが、現在同州における居住者のうちユダヤ人は1%をわずかに超えるほどである。
帝政ロシアの時代、ユダヤ人は信用できない存在としてスパイ行為をする”外国人”と考えられており、その生活には居住の制限など多くの制約が設けられていた。実際、1905年に起こった第一次ロシア革命時には政情不安からくる迫害によっておよそ800人が犠牲になったと言われている。
1917年に帝政ロシアが倒されて以降、アレクサンドル・ケレスキーの臨時政府によってユダヤ人の制限の緩和、以降もウラジーミル・レーニンらが指導したボリシェヴィキ政権によって多くのユダヤ人がポストに就くようになっていった。だが、これが社会主義のもとで肉体労働を強いられている庶民の反感、反ユダヤ主義的な感情を強く抱かせる要因にもなった。
そうした事情もあって、帝政崩壊後に起こった数々の内戦ではユダヤ人の多くが犠牲を払っており、およそ20万人ものユダヤ人が殺害されたとの統計もあるという。
こうした中、ウクライナのユダヤ系の出自であったレフ・トロツキーを主導として、ユダヤ人に対して広く農耕できる入植地を与えようとする計画が持ち上がる。ソ連内は多くの民俗が共存していたものの、ユダヤ人だけが自分たちだけの土地を持っていなかったからだ。
その後、1924年にヨシフ・スターリンが権力を掌握しソビエト連邦が整い始めてまもなく、28年に「ビロビジャン計画」が立てられ、本格的なユダヤ人の入植が行なわれることになった。
ビロビジャンは、アムール川支流域に存在する町であり、現在の州都となっている。
しかし、スターリンの意図としては、ユダヤ人の保護というよりは隔離するという意向があったとようだ。彼は、反ユダヤ主義に対して「カニバリズムの残滓」として批判する声明を出していたが、実際は彼自身が反ユダヤ主義的思想を抱いており、ユダヤ人への反感や差別は無いという回答は国際社会に向けたアピールに過ぎなかった。
事実、第二次大戦後に大々的な反ユダヤキャンペーンを始めたのはスターリン自身だったという。
ビロビジャンは、そもそもユダヤ人にとっては約束の地どころか全く縁もゆかりもない場所であり、極寒でインフラも無く、1から生活をスタートさせなければならない状況だった。また、当時の支那との境に位置していたこともあり、「満州からの脅威」に備えるための国防的配慮の思惑もあったようだ。
計画が宣伝された当初は、入植希望するユダヤ人がロシアに留まらずポーランドやアルゼンチン、アメリカからも殺到することとなった。しかし、すぐにその過酷な環境での生活が耐えられないと判断したユダヤ人たちは、次々と撤退していった。
1939年の調査によると、ユダヤ自治州の人口10万9000人に対するユダヤ人の人口はわずか1万7000人、16%という割合に留まっていたという。
ユダヤ人をいたずらに翻弄させた極東のパレスチナとも言えるこの計画が、失敗に終わったことはもはや明白だろう。
【参考記事・文献】
・https://jp.rbth.com/history/79235-yudaya-jichishuu
・https://jp.rbth.com/history/82900-yudayajin-ni-totte-no-soren
・https://www.hit-u.ac/excursion/09manchuria/column/JewishRegion/index.html
・http://www1.s-cat.ne.jp/0123/Jew_ronkou/various/birobijan_keikaku.html
・https://www.russia-ex.com/blog/item/12085.html
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【文 ナオキ・コムロ】
画像 ウィキペディアより引用