松尾芭蕉と言えば江戸時代の俳諧師で、誰しも知っている俳聖である。
一方で謎の多い人物でもあり、松尾芭蕉の正体は忍者だったという説がある。この仮説は昭和の頃からテレビ番組や書籍で取り上げられており、近年は都市伝説として流布されている。
アトラスでは過去に忍者に関する記事を上げている。「ペリー艦隊に忍び込んだ忍者」「忍者のルーツは聖徳太子」「トラウマ作品・実写版ハットリくんに杉良太郎が出ていた」「猿飛佐助、服部半蔵名のある忍者の歴史」などが人気の記事だ。
芭蕉忍者説の根拠だが、出身地が忍者の国・伊賀であったことがあげられている。忍者業務に従事してなかったとしても、忍びが周辺にいたことは間違いない。唯一気になるのは芭蕉の健脚ぶりだ。奥の細道において芭蕉は2500キロ(五百里)を五か月で歩いており、一日平均15,16kmを歩き、多い時には数十kmを歩いている。
具体的な例を挙げると江戸深川を出発し三日後には日光東照宮に到達している。当時芭蕉は46歳であり、平均寿命が50代だった江戸期において初老とも言える芭蕉が、160kmをたったの三日で歩けるものであろうか。
また、松尾芭蕉は寛永21(1644)年に、藤堂藩侍大将である藤堂新七郎良清の三男・藤堂良忠に仕えている。この藤堂家は服部半蔵の親類にあたるため、芭蕉は俳句の旅と称して偵察旅行を大名家や幕府からの依頼を受けて行っていたのではないかと言われているのだ。大名家や幕府がスポンサーだったとすれば、芭蕉の謎の資金源も明白になり納得がいく。
事実、奥の細道が書かれた当時、江戸幕府は仙台藩伊達家は緊張関係にあった。莫大な費用のかかる日光東照宮の修繕を命じれた伊達藩に不穏な動きを見て取った幕府が藤堂藩を通じて芭蕉というエージェントにスパイ活動を行わせた可能性がありうるのではないだろうか。
よくよく見てみると、奥の細道の道中における芭蕉の動きも不審なものがある。出発の際にしきりに気にしていた松島では1句も詠まずにたった1泊であっさり通過している。逆に伊達家の軍事拠点である瑞巌寺や、戦の物資を取り込む石巻港などは念入りに観察している。明らかに不自然である。
このように、スパイというか調査員を大名や幕府が派遣したほかの事例はないのであろうか・・・。
実は有名な例として、水戸光圀の「大日本史」編纂事業事業である。漫遊で知られる光圀は実際にはほとんど漫遊せず、調査員を各地に派遣し歴史や地理を調べ上げている。当時の感覚として藩が違うと完全に外国であり、その外国の調査をするために偽装したスパイを送り込むことは一般的な感覚であった。
このようなスパイは、俳諧師以外でも旅の僧侶である雲水、虚無僧、山伏、薬売りや芸人など巡回する商売人などがあり、武田信玄が歩き巫女を各地に派遣し、諜報部隊として活用したことは広く知られている。
芭蕉忍者説の証拠として芭蕉の死後、江戸幕府は芭蕉の弟子であった曽良に第四回諸国巡見の随員として検分依頼を出しているのだ。曽良は巡見使の旅の途中に死去してしまうが、芭蕉一門が幕府側のスパイであった証拠とは言えないだろうか。
なお余談だが、某タレントが松尾芭蕉の正体が家康から自由にしてもらった服部半蔵ではなかったのか、また半蔵という名前は半蔵門という地名からとったとか、奇妙な仮説を展開している。
だがこの仮説に対しては筆者は異論を持っている。松尾芭蕉と家康が使った服部半蔵とでは時代が百年ばかり違う。子孫である四代目服部半蔵ならば芭蕉と時代が合うが、四代目の半蔵は忍びではなく事務官になってしまっていた。また、半蔵門という地名から服部半蔵の名前がついたのではなく、服部半蔵の名前から半蔵門という地名が生まれたのだ。
都市伝説の仮説と言えども、最低限の歴史的常識はカバーして頂きたい。
(山口敏太郎 ミステリーニュースステーションATLAS編集部)