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映画で有名な抜刀の達人「座頭市」は実在した!

座頭市は、子母澤寛原作の時代劇小説作品、そしてその作中に登場する人物。座頭とは江戸時代における盲人の階級の一つであり、その通称の通り座頭(いわゆる按摩)である市(いち)が、諸国を旅しながら悪人と対峙し驚異の抜刀術を展開するというアクションが売りとなっている。

映画作品としては、勝新太郎主演のものがシリーズとして有名で、1970年の『座頭市と用心棒』は三船敏郎の代表作『用心棒』との夢の対決を実現させたことで、シリーズ中最大のヒット作となった。また、70年代にはテレビドラマ化もされ、そこでも勝新太郎主演となっている。まさしく、勝新太郎のために座頭市があると言っても過言ではない。

アメリカや香港などの映画界にも大きな影響を与えたと言われているが、それとはまた異なる事情で熱狂的な支持を得た例もあった。

1958年のキューバ革命後、ハリウッド映画の輸入が禁止されたキューバにおいて日本映画が頻繁に公開され、そのさなかに上映された座頭市は最も公開回数が多く高い人気を誇った。

そんな座頭市であるが、実在の人物であったことはあまり知られていない。

福島県会津若松市にある井上浄光寺に、座頭市の墓が存在している。かつて、作者の子母澤寛が同寺を訪れた際、当時の住職から檀家にそのような人物がいたことが語られ、それが1961年に発表された随筆集『ふところ手帖』に短編として書かれた『座頭市物語』に繋がったという。

その人物は、阿部常衛門という人物。彼は、会津ではなく越後長岡藩の武士で、青年時代に眼病を患ったことで失明したという。長岡の殿様のご落胤であったと言われ、失明によって継承のレースから外されたことで母方の故郷である猪苗代へ移住、そこで按摩や鍼灸を行なっていたそうだ。

居合の達人であったのは事実で、一太刀で枡を真っ二つに斬ることができたほどであるという。殿様のご落胤であったとするなら、まだ目が見えていた時代に相当の指導者によって教え込まれた可能性は十分に考えられるだろう。

晩年は、現在の千葉県である房総の飯岡に出向き、当時旭市や銚子市で縄張りを有していた飯岡助五郎という侠客の配下にいたという。なおなぜ、阿部が飯岡の地に行ったのかはよくわかっていないが、人格者であり若い連中から慕われていたようである。因みに、千葉県旭市飯岡には『座頭市物語発祥の地』として石碑が建てられている。その後1849年11月、会津にて没した。

因みに、「座頭市」という呼び名については、もともと阿部が会津から外へ出かける際に名乗っていた「佐渡市」がもとであると言われている。この呼び名と、盲人の人々をまとめ上げていたということから「座頭市」になったとのこと。昭和初期には肉親の末裔も亡くなっており、彼の血縁は絶えてしまっている。

なお、猪苗代湖の南に位置する福良には、別で伝わる座頭市の話があるという。明治時代、福良の座頭たちによる門付け(大道芸)が若松城下で流行しており、それらの唄や三味線は座頭市が仕込んだと言われている。

幕末のこと、関東からやくざに追われていたということで座頭市が福良へ渡り、しばらくの間「和歌野屋」という宿に逗留。舟津港への道中、追いはぎに襲われて湖に突き飛ばされたところを通りがかりの者に助けられ一命を取り留めたが、足が不自由になったことで弟子を取り、按摩の術や座頭芸の伝授を献身的に行なったと言われている。

【参考記事・文献】
『座頭市』は実在し、ルーツもある!
https://tabi-mag.jp/1513/
実在した座頭市(旭市飯岡町)No 1094
https://ameblo.jp/kawasemi726/entry-12121654605.html
もうひとつの「座頭市」物語
https://blog.goo.ne.jp/goo3360_february/e/ed29603f59fcc878893899baddb1b6ee

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【文 ナオキ・コムロ】

画像 ウィキペディアより引用