日本において撃墜王の異名で呼ばれた人物といえば、空戦の神様とも呼ばれた杉田庄一、ラバウルの悪魔と称されるほどに恐れられた西沢広義、自叙伝的小説『大空のサムライ』でも知られる坂井三郎など幾人も存在する。
そんな中で、「最強の零戦パイロット」と謳われた人物こそ、岩本徹三である。
自らを「零戦虎徹」と称したという岩本は、1916年に南樺太で生まれ、のちに島根県の益田に移り、19歳で暮れの開閉段入団し、1936年に第34期操縦練習生を卒業した。23歳で中国戦線での空中戦にていわばパイロットデビューを果たすが、初陣において4機を撃墜、そして日中戦争において計14機という最多撃墜数を公認されたことで、その若さでは異例の金鵄勲章を授与された。
その後は、空母瑞鶴の戦闘機隊員となり、26歳という年齢でありながらすでに古参搭乗員として零戦に乗り込み後漢の上空哨戒にあたっていたという。
小柄で物静かというイメージから、とても撃墜王とは思えないという印象を持たれがちであるが、人によってはあまりにも強い殺気を放っていたという声もあった。先の西沢とは、その腕を競い合うライバル関係であったとも言われている。余談としては、非常に顔立ちが良く、坊主頭を拒み続け長髪をキープし続けていたと言われている。
さて、そんな彼は空中戦においては、いつも最初に敵を発見していたと言われている。
しかし、彼の視力は検査によって1.0と、他のパイロットと比べても特別視力が良いというわけではなかったという。敵機の索敵方法を問われた際は、「目で見るんじゃない、感じるもんだ」と答えたという。また、信頼性の低い機上無線を巧みに使いこなしながら編隊空戦を得意とし展開させていたことからも、彼独自のセンス・能力が発揮されていたのではないかと考えられるだろう。
多用な戦法を駆使した稀有な日本軍パイロットとしても知られている岩本の、最も有名なものは「送り狼戦法」と呼ばれるものだ。
この名称は米軍側が呼んだ通称であるが、簡単に言えば攻撃を終えて帰る敵機に襲いかかるというものである。この戦法は、敵をより多く撃墜する上では非常に効果的であるものの、その反面、敵機が攻撃を終えた後とはすなわち自陣に被害が出ていることを意味しているため自陣の防空任務を放棄しているのではないかとする声や、そもそも戦場から離脱するところを襲うのは卑怯ではないかとする意見もあり、非常に賛否が分かれる戦法であったようだ。
さて、日中戦争から終戦にかけて、彼は実に202機もの敵機を撃墜したと言われている。だが、そもそも帝国海軍は「功名心から敵を深追いして護衛任務を蔑ろにする」などといった危険性を考え、1943年以降には個人撃墜数を認めていなかったという。そのため、この202機撃墜という数字は彼の自己申告であり、正確な記録とはなされていない。
しかも、この数字は事故を含んで大戦中に米軍が喪失した機体数の10%にも及ぶ数であるため、これが岩本一人の手で撃墜がなされたと判断するのは信じがたいとする意見も多いのは事実だ。このため、周囲の証言などから実際は80機であったとも言われているものの、それでもかなりの戦果であることには変わりない。
戦後は公職追放をされて公社、開拓事業、公職追放解除により定職に就くなど経たが、虫垂炎の誤診による手術そして背中の古傷の手術ミスなどによって、1955年に38歳という若さでこの世を去った。
退役後は少々不器用な近所付き合いもあったと言われているが、それでもパイロット時代の話をすると喜ばれたという。「戦闘機乗りになるために生まれてきたような男だった」、彼の葬儀に訪れたかつての同僚の言葉がまさに全てを物語っているのかもしれない。
【参考記事・文献】
激戦を生き抜いた零戦虎徹「岩本徹三」と「零式艦上戦闘機」(A6Mシリーズ後期型)
https://www.rekishijin.com/24350
岩本徹三
https://w.atwiki.jp/aniwotawiki/pages/7280.html
岩本徹三
https://dic.pixiv.net/a/%E5%B2%A9%E6%9C%AC%E5%BE%B9%E4%B8%89
岩本徹三~最強戦闘機パイロットの矜持とその後
https://rekishikaido.php.co.jp/detail/4002
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【文 ナオキ・コムロ】
画像 ウィキペディアより引用