1944年4月、日本陸軍輸送船「松川丸」がシンガポールを出港しインド洋東部ベンガル湾のアンダマン諸島にあるポートブレア港に向かっていった。アンダマンはイギリスの植民地であったが開戦直後に日本が占領、この時、松川丸にはアンダマンの守備に就くため中国大陸から転戦してきた大隊の将兵らおよそ1300人が乗船していた。
アンダマンは日本の占領地の中でも辺境な場所に存在し、また連合軍の圧力も強かったことから「敵がアンダマンに進攻したとしても援軍は一切ない」「できることは精神的な支援のみである」などと南方軍から訓示がなされたほどだった。
そうしたこともあって、部隊一丸となって対潜監視をしていたことが功を奏したためか松川丸の航海は順調なものとなり、14日、アンダマンの島々が遠方に見えてきた。島からは、警護のために一式戦闘機「隼」が2機が飛び立ってきており、将兵らも問題なく入港できることを大きく期待。
だが、安堵しかけたその直後、なんと敵潜水艦が突如として姿を現した。松川丸は速力を上げて港を目指し、また4隻の護衛艦が爆雷攻撃を開始するも、「敵魚雷発見、雷跡われに向かう」との監視の声が上がり、3本の魚雷が松川丸に向かっていた。
絶体絶命となったその時、護衛の1機である「隼」が機銃掃射をしながら魚雷を追っていた。
この隼を操縦していた人物は、陸軍飛行第二十六戦隊アンダマン派遣隊に所属していた、当時18歳の石川清雄(きよお)曹長。北海道に生まれた石川は幼い頃から飛行機の模型などを好み、中学生のころには札幌飛行場に通って訓練を見学、飛行士と仲良くなっては親に内緒で訓練に混ぜてもらったり定期便に乗せてもらったりするなど、飛行機を心から愛していた。1937年、現役志願で陸軍の航空部隊へ入隊し、晴れて念願のパイロットになった。
ノモンハン事件をはじめとして、ビルマ、スマトラ、フィリピンなど戦場を渡り歩き、その幼い頃からの飛行機の知識がキャリアを積む上でも大いに役立ったという。若いながらもベテランのパイロットとして名を轟かせ、射撃の技量も高く百発百中であったとも言われている。
さて、石川の操縦する隼は魚雷を阻止するために攻撃を繰り出していたが、魚雷はそれにびくともしない様子であった。隼は、機銃が効果無しと判断したためかその後、なんと海に向かって突っ込んでいき、ついに魚雷目掛けて体当たり。轟音が鳴り響いた直後には、機体の破片が宙を舞い、日の丸の描かれた翼が漂いながら海の底へと消えて行ったという。
そのほんのわずかな時間での出来事に乗組員たちは呆然としていたが、この隼の決死の行動によって松川丸は救われることとなり、残り2本の魚雷も回避に成功し損害を被ることは無かった。
石川は生前、両親にあてた手紙や遺書の中に、「散った時は存分にやったなと褒めてください」「僕は必ず立派な戦死をしますから」と記していたという。はじめから戦死する覚悟であった石川の行動が1000人以上もの味方の命を救った。
因みに、1944年6月、空母「大鳳」がマリアナ沖海戦にてアメリカの潜水艦「アルバコア」の雷撃によって撃沈してしまうのだが、この時、大鳳から発艦していた1機の艦上爆撃機「彗星」が魚雷を発見して引き返し体当たりを試みたというエピソードが残っている。
残念ながら、この体当たりは失敗に終わってしまったものの、ひょっとすると彗星の操縦士は隼の魚雷体当たりを耳にし影響を受けたのかもしれない。石川のような、立派に戦死するという気概を抱いていた人々が少なくなかったことを物語る逸話であろう。
【参考記事・文献】
4月14日 陸軍一式戦隼・石川清雄曹長が魚雷に体当たりをして1300人を救う!~自らの命を犠牲にして多くの人を救う!!~
https://reiwa00502.hatenablog.com/entry/2024/04/16/000000
特攻に先がけた人々1 帝国陸軍|特攻隊とマスコミ(4)
https://tainichihate.blog.fc2.com/blog-entry-503.html
日本陸軍の知られざる英雄!迫る魚雷から味方輸送船を守った一式戦闘機「隼」のパイロット
https://x.gd/3PiOm
昭和19年6月19日・新鋭空母「大鳳」マリアナ沖に散る
https://ameblo.jp/vesselturedure/entry-12681413951.html
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【文 ナオキ・コムロ】
画像 ウィキペディアより引用