たのきんトリオは、田原俊彦(トシちゃん)、野村義男(ヨッちゃん)、近藤真彦(マッチ)の3人により結成されたジャニーズ所属の男性アイドルグループである。1979年から放送されたドラマ『3年B組金八先生』第1シリーズに3人が揃って生徒役出演したことで注目され、田原の「た」、野村の「の」、近藤の近で「きん」から取り「たのきん」と命名。
活動期間は短く、1983年8月28日に大阪球場にて解散コンサートを行ない、またアイドルグループでありながら1枚のシングルも出さなかった。元々、3人はグループとして売り出されたわけではなかったため、結成中もその活動は各自ソロで行なっていたことが殆どだった。
しかし、アイドル過渡期とも言われた70~80年代に登場した、当時の彼らに対するファンの熱狂ぶりは凄まじく、それに伴って様々な伝説をも生み出した。
たのきんトリオは、それまでのアイドルとは異なったスタイルによりその人気を不動のものにしていったという。現在では、アイドルがバラエティ番組で活躍する様子はもはや当たり前の事柄となっているが、こうした基盤を築き上げたのはたのきんトリオであったと言われている。3人はそれぞれ強い個性を持ち、当時のマネージャーは相手を見れば誰のファンかがわかったほど。
また、人気が出始めた頃の特徴的な逸話としては、3人のプロマイドが修正されずに発売されていたというものであった。当時の3人は、年齢的にも思春期真っ盛りでニキビ面であったというが、それでもプロマイドは売れ、近藤真彦は特に人気があったためか1万円の値がついたほどであったという。ファンレターについても、絶頂期にはそのあまりの数から毎日専用車が配達をしていたと言われている。
日本のアイドル史を変えたとも言える人気ぶりであるが、それによって実際的な被害が起こることもたびたびあった。
当時、六本木の合宿所に連日に渡り早朝からファンが押し寄せていた。その勢いはすさまじく、すぐそばのTBSへ行くためにパトカーを出動し、それでもやっと到着することができたほどであったとのことで、そのたびに田原や近藤の体は擦り傷だらけになってしまった。さらには、合宿所に押し掛けたファンによる騒音やゴミ、果ては落書きがあまりにもひどかったため、近辺の高級マンションの物件価格が下落してしまったという逸話も残っている。
そんなたのきんトリオであるが、不仲だったのではないかという噂が囁かれていた。中でも、特に人気であった田原と近藤に対しては強く不仲説が飛び交っていた。
両者は学年にして4学年ほどの差があり(田原が年上)、先輩後輩という立場であった。互いにトップスターでもあった両者であるが、のちに田原は個人事務所を立ち上げ独立し、俗に言う「俺はビッグ」発言もあって大バッシングを受けたこともありメディア露出を激減させていった。
一方の近藤は、ジャニーズに残り事務所でもトップの位置となり、後輩から慕われていたと同時に当人はレースにも没頭するようになっていった。
このようなタイプの違う両者の性質が、不仲説を生み出す要因の一つになっていたことは間違いないだろう。後年の田原の発言によれば、相手の連絡先すらも知らないままであるという。
だが、元々グループでもなかった3人で流れるままにトリオとなった経緯や、結成中もソロ活動が中心であったという事情を見れば、不仲というよりかはお互いにある程度の距離を置いていた程度の関係であったことは察せられる。一説では、毎週のようにベストテンやトップテンに出演していた田原と近藤は意図してセールス時期をずらし、ガチンコで戦うことのないよう調整し合っていたのではないかとも言われている。
短期間で爆発的な人気を博した上、アイドルそのもののあり方をも変えたと言われているたのきんトリオ。彼らはそれぞれ、音楽ソロ活動、レース監督、音楽プロデューサーといった独自の道を辿り活躍するが、そのことも後進のアイドルの行く末に道を作り上げたものであると言われている。
【参考記事・文献】
たのきんトリオ伝説 合宿所にファンが押しかけ周辺物件下落
https://x.gd/vOj5H
期待されていなかった「たのきんトリオ」が人気になった理由
https://x.gd/mwfOD
田原俊彦と近藤真彦の不仲説の真相は?野村義男との仲は?
https://x.gd/Rremi
「たのきんトリオ」の素顔 清水国明が今、楽屋裏を明かす
https://x.gd/LpiCM
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【文 ZENMAI】
画像 エルエルシー / photoAC