大嶽丸は、酒呑童子や玉藻前と並ぶ日本三大妖怪の一角として知られる鬼神である。伊勢と近江の国境にある鈴鹿山に居を構え、悪逆非道の限りを尽くしたと言われている。鬼神魔王の異名も持ち、山を黒雲で覆い火の雨を降らせるといった神通力を操ったという。
大嶽丸の伝承については、御伽草子『田村草子』が代表的なものとしてあげられる。それによると、伊勢国鈴鹿山に大嶽丸という鬼神が現れ、峠を往来する人々や都を襲ったという。討伐を命じられた坂上田村丸俊宗が、三万の軍を率いて鈴鹿山へと向かうものの、大嶽丸の神通力によって阻まれてしまう。大嶽丸の居場所をつかめずにいた田村丸が観音菩薩に祈願すると、「鈴鹿御前の助力を得よ」との託宣があった。
鈴鹿御前とは鈴鹿山に天下った天女であり、その美貌から大嶽丸も惚れ込み童子や公家に化けては鈴鹿御前のもとへ訪れるも、叶うことは無かった。田村丸は鈴鹿御前と会うことができ、共に討伐へと向かうこととなった。その夜、いつものように童子に化けた大嶽丸が鈴鹿御前のもとへやってきたが、鈴鹿御前は色仕掛けで誘惑しながら、「田村丸が私の命を狙っている」と言って大嶽丸の持つ三本の剣のうち二本を手に入れることに成功した。
とうとう待ち構えていた田村丸と正体を現した鬼神とで激戦が繰り広げられ、ついには田村丸の投げた「そはやの剣」で大嶽丸は首を落とされた。首は都へと運ばれ、田村丸は鈴鹿御前と暮らすこととなったが、その後大嶽丸が蘇ってしまい陸奥の霧山に城を建てて暴威を奮った。
田村丸と鈴鹿御前は再び討伐へ向かい、激戦の末再び首が打ち落とされた。大嶽丸の首は、平等院にある宇治の宝蔵に、酒呑童子の首と玉藻前の死骸とともに納められているという。
『田村草子』は、広く巷に流布したため江戸時代ごろから地方伝承として各地に定着していったものと考えられている。滋賀県には、大嶽丸討伐の途上で祈願したという北向岩屋十一面観音や田村丸が「鈴鹿山の鬼」の首を埋めたという鬼塚の残る善勝寺などがあり、東京国立博物館には兵庫県の清水寺の所蔵となっている田村丸が鬼神を討伐したという大刀が保存されている。
東北地方で語られていた浄瑠璃『田村三代記』では、少々異なったストーリーとして描かれている。それによると、鈴鹿山に魔王の娘「立烏帽子」がこもり悪事を働いており、田村丸が討伐に向かうも立烏帽子も剣豪であったために苦戦を強いられてしまう。
その時、「私の夫になれば改心して奥州の鬼神大嶽丸の討伐に協力しましょう」と言い、力を合わせて大嶽丸の討伐を果たすことができたという。
現在は否定される傾向にあるようだが、大嶽丸は陸奥国の悪路王と同一視されていることがあり、また大嶽丸が転訛していった末に悪路王になったのではないかとする説もある。さらに一説によると、大嶽丸は大和朝廷へ抵抗していた東国の勢力のことを指しており、史実では「阿弖流為」(アテルイ)と呼ばれていたという。
阿弖流為と言えば、田村丸(田村麻呂)の説得によって朝廷へ下るが最後には斬首された蝦夷の族長であったと言われている。この征伐のストーリーは、青森県のねぶた祭の発祥にもつながっている。
朝廷の抵抗勢力であった東国の長が、朝廷側からは鬼神として征伐されたが、東北では祀り供養する対象となっており、このことが大嶽丸の伝説とも重なっているという。
【参考記事・文献】
山口敏太郎『怨霊と呪いの日本史』
大嶽丸
https://dic.pixiv.net/a/%E5%A4%A7%E5%B6%BD%E4%B8%B8
大嶽丸 ― 日本最強の鬼神 ―
https://chinki-note.blogspot.com/2020/12/oodakemaru.html
【文 ナオキ・コムロ】
画像 ウィキペディアより引用