崇徳上皇は、保元の乱で一敗地にまみれ、天狗界に身を落とし白峰魔王と成り果て、讃岐三大天狗呼ばれる相模坊、中条坊、金剛坊の三人を従え、日本国に壮大な呪いをかけたと言われている。その言葉が凄まじい。
「我は、この国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」
讃岐で幽閉生活を送る崇徳上皇は、仏教に帰依し、保元の乱の死者の供養に専念していた。五部大乗経の写本製作し朝廷に贈ったが、後白河法皇は、折角贈った写本を全て送り返してきたのだ。
この酷い仕打ちに激高した崇徳上皇は、己の舌を噛み切り、滴る血で呪いの文言を経文に書き加え海に沈めたという。長寛2年(1164)に流刑地・讃と岐で崩御する。
悲劇的な崇徳上皇の死去から、様々な動乱が起こるようになる。平治の乱に勝ち抜いた平氏の横暴、鹿ヶ谷の陰謀、京の大火、妖星の出現、養和の飢饉、木曾義仲や源頼朝による地方での反乱、源平合戦、鎌倉幕府の成立、承久の乱。これらの動乱は崇徳上皇の祟りだと民衆は噂したのだ。
「太平記」によると、愛宕山にて背中に大きな翼が生えた異形の姿となった崇徳上皇が目撃されたと記録されている。魔界の王となった崇徳上皇は、同じく天狗に身を落とした淳仁天皇、後鳥羽上皇らと大乱を起こす相談をしていたと記されている。当時の日本人は、悲劇的な死を向けた天皇や皇族は天狗となり、天狗の世界で生きていると噂したのだ。
(山口敏太郎 ミステリーニュースステーションATLAS編集部)
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