アッツ島の戦いとは、第二次世界大戦における日米間の戦闘の一つである。両軍ともに、硫黄島の戦いに次ぐ人的損失となった激戦となり、米軍を相手に戦った日本軍の守備隊全滅は、国内で初めて「玉砕」という語で報じられるなど衝撃を与えるものとなった。
1942年6月、大東亜戦争が勃発して半年が経とうとしていたころ、日本海軍は最重要であったミッドウェー占領作戦の陽動としてアリューシャン列島に進攻しており、この時アッツ島とキスカ島に上陸、部隊によって占領した。
両島の占領は、もともと一時的なものであり、すぐに撤退をする予定であったのだが、ミッドウェー海戦が敗北に帰したことで方針が急遽変更され、アッツ島とキスカ島をそのまま占領維持する方向へと転換した。増援部隊や補給物資が送られるようになり、アッツ島は「熱田島」と改名された。
アッツ島はそもそも無人島であったがれっきとしたアメリカ領であったため、占領がなされたという事実は連合軍に大きな衝撃を与えたという。自国の領土を占領されたままでは国民の士気に関わると見たアメリカは、この北海の小島に向けて大軍を派遣。
1943年5月、アッツ島にて山崎保代陸軍大佐率いる2,500人程度の守備隊に対し、米軍による艦隊に護衛されたおよそ11,000もの部隊が上陸を開始した。
山崎率いる守備隊の4倍以上の規模となるものであり、圧倒的な戦力の差に歯が立たなかった。守備隊など北方軍を指揮する立場であった樋口季一郎は、米軍上陸の知らせを受けて5,000の増援部隊の上陸を要請、守備隊隊長である山崎には激励の電文を送るなどした。
しかし、樋口に対して大本営から命じられたのは「アッツ島の放棄、キスカ島の撤収」、すなわち南方戦線の戦局打開を優先するためアッツ島を見捨てよというものであった。この命令を受けた樋口は、錨と悔しさのあまり慟哭したと言われており、断腸の思いで山崎へ送った電文は、「敵を討ち、最後の時に至れば潔く玉砕せよ」という内容だったという。
電文を受けた山崎はそれを理解し「武士道に殉じる」と返信、その勢いもあってか戦闘は19日間に及ぶ激戦となった。当初、米軍は3日もあれば奪還は可能であろうと考えていたが、その読みは大いに狂うこととなった。最後には、山崎自らが先頭に立って斬り込み、戦死した。
実際には20人余が捕虜となって生還したという日本軍側であるが、一方の米軍側も戦死者600名、戦傷者1,200名という犠牲を払った。アメリカにおいてこの戦闘は、「突撃の壮烈さに唖然とし、戦慄して為す術がなかった」とし、「バンザイ・アタック」というワードと共に歴史に刻み込まれている。
因みに、一方のキスカ島の守備隊約5,600人は、連合国に包囲されながらも撤退作戦を行ない、全員無傷で撤退することができたという。この時、撤収のための艦隊がキスカ島への突入の機会を伺い続けていた中で、ある夜に米軍が砲撃を開始。実は遥か遠方の島々を艦隊と勘違いし、その影が消え去ったということで全滅と判断、米軍艦隊は海域から離れていったという。
このことは「キスカの奇跡」とも呼ばれ、キスカ島から無事脱した守備隊たちがアッツ島に向かい脱帽し黙祷をした際、「万歳」という声がアッツ島の方角から聞こえたという逸話も残っているという。
【参考記事・文献】
「アッツ島の戦い」とは?「アッツ島玉砕」と奇跡の「キスカ島撤退作戦」も紹介
https://skawa68.com/2021/07/29/post-77896/
アッツ島玉砕の悲劇が導いた、キスカ島撤退の奇跡
https://rekishikaido.php.co.jp/detail/4103
日本軍の4倍以上の兵力でアメリカ軍がアッツ島に上陸。激しい抵抗もむなしく日本軍は玉砕!
https://www.rekishijin.com/15296
【アトラスラジオ関連動画】
【文 ナオキ・コムロ】
画像 ウィキペディアより引用