タイムトラベル

「イッター城の戦い」第二次大戦に米独が共闘した世にも奇妙な戦い

イッター城の戦いは、第二次大戦末期のオーストリアの北チロル、イッターの古城「イッター城」で起こった戦闘である。敵対関係にあったアメリカとドイツの兵士が共闘をした唯一の戦いであり、第二次大戦における最も奇妙な戦いとも称されている。

ヨーロッパにおいて戦争の終わりが間近となった1945年5月。イッター城は、ドイツ労働者党の武装新鋭部隊「SS」によって収容所として使用されていた。そこでは、ドイツの敵国の政府要人や高級軍人が収容されていたこともあって、通常の収容所とは待遇が異なり散歩や図書館使用の自由、プロのシェフによる食事、監視付きの外出まで許されていた。

ここに収容されていたのは、元首相のボドワール・ダラディエ、元仏陸軍最高司令官モーリス・ガムラン、テニス選手のジャン・ボロドラなどフランスの錚々たる顔ぶれが収容されていた。

1942年から収容所として使用されていたイッター城であるが、大戦末期になると、米軍に追い立てられて逃亡するSS部隊の中継地点としても使用されることとなり、この時収容所所長であったゼバスティアン・ヴィンマーも家族や妻を連れて脱出、看守たちもこれに続きイッター城は武装した囚人たちの手に落ちた。

所長の後任を押し付けられていたクルト・シュラーダーSS大尉は、もうすでにドイツの敗北が濃厚であるとして帝国に見切りをつけ、すでに接近をしていた米軍に投降しようと考えた。駐留軍で指揮をとっていたヨーゼフ・ガングル少佐もこれを許可した。もはや狂信的なSS部隊のみが抵抗を続けていたこのさなか、ガングル少佐は部下や住民を守るために武装解除は行なわず同胞と撃ち合う覚悟であったという。




一方、イッター城の中でも動きがあった。シェフとして勤めていたチェコ人のアンドレ・クロボットが、米軍に救助を要請するための手紙を届けるという役目に選ばれた。最寄りの米軍へ向かおうとしていた彼は、その途中でガングル少佐の指揮するドイツ軍に捕まったが、イッター城の状況を聞いたことでそれに便乗する形での投降を思い立ち、手紙を引き継いで白旗を掲げた軍用車両で米軍へ向かった。

その後、クフシュタイン地区を行軍していたジョン・リー大尉率いる米陸軍部隊に出くわし、ガングル少佐から事情を聴いたリー大尉は独断によってイッター城へ向かうこととなった。当時、米軍はイッター城の囚人を解放する目的もあったのだが、過激なSS(第17SS装甲擲弾兵士団の生き残りとされる)の攻撃によって迂闊に近づくことが出来ない状況であった。

ここで、リー大尉はガングル少佐のドイツ兵を自分たちの部隊に組み込んで戦うという大胆な決定を下し、さらに囚人たちの中に武器を手に取って共に戦うと譲らない数名のフランスの囚人たちが加わって、米独仏による対SSの共闘となった。そしてSSを撃退することに成功した。

何世紀にもわたり美術館や収容所などに姿を変えていたイッター城は、原初の要塞という役割を与えられることとなった。また、戦いのさなかSS兵が城内に突入する際、増援に現れた第142連隊の先頭に立ち誘導していたのが、解放され逃げたはずのボロトワであったと言われている。

この戦いの2日後、ドイツは降伏しヨーロッパにおける第二次世界大戦は終結した。敵対相手との共闘という創作にある熱い展開を現実にしたかのような、まさしく事実は小説よりも奇なりというに相応しい戦いであった。

【参考記事・文献】
イッター城の戦い
https://ca-ra.org/ja/%e3%82%a4%e3%83%83%e3%82%bf%e3%83%bc%e5%9f%8e%e3%81%ae%e6%88%a6%e3%81%84/
イッター城の戦い:アメリカ人とナチスが並んで戦ったとき
https://ja.asayamind.com/battle-castle-itter
ドイツ軍とアメリカ軍が協力した神回!?史上最も奇妙な戦闘
https://x.gd/BcpEy

【文 黒蠍けいすけ】

画像 ウィキペディアより引用