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「松井秀喜」甲子園時代、前代未聞の5打席連続敬遠騒動

松井秀喜は、イチローと並び平成時代を代表する元プロ野球選手の一人だ。

1993年にドラフト1位で読売ジャイアンツに入団、10年後の2003年にはニューヨーク・ヤンキースに入団、2012年に現役引退を表明するまで多くの伝説を作った人物でもある。特に現役時代は、「ゴジラ松井」の愛称で多くの人々に親しまれていた。

小学校1年生ごろから野球に触れ始めたという彼は、プレイヤーとしての実力も子供のころから規格外であったと言われている。彼は元々右打ちであったのだが、少年時代にとある事情から左打ちへ転向している。

当時、彼は阪神タイガースファンで掛布雅之に憧れており、掛布が右投げ左打ちということから自身も左打ちに変えたという。だが、実際はあまりにも打ちまくっていたためにハンデとして左打ちを周りから命じられたというのが真相であるようだ。渋々承諾した彼がそれを飲み込んだ理由こそ、掛布が左打ちだったからということであった。

体格に恵まれていたこともあって、小学3年生の頃から始めた柔道では県下3位の成績を誇り、国体強化選手にも選ばれたことで野球よりも注目されていたという。しかし、進学した中学校に柔道部がなかったため、ここで彼は野球に専念することになった。彼の実力であれば、野球でなくとも柔道で名を轟かせていた可能性も充分にあっただろう。

松井秀喜最大の伝説・逸話として知られているのは、星稜高校時代のこと。すでに1年生の時点で4番バッターとなっていた彼は、この時からすでに関係者の中で「恐怖の1年生4番打者」として知られていた。




3年生となった彼が甲子園に出場した時、事件は発生した。この時の2回戦で対戦した明徳義塾高校に対して敗退をした星稜高校であるが、この時松井は5打席連続で敬遠されてしまった。敬遠とは、故意の四球(フォアボール)によって打者を塁に出すものであり、いわば強打者に打たせない戦略の一つである。要するに、彼は相手側から徹底して勝負を避けられてしまった。

これは、明徳義塾高校の監督の指示によるものであり、「球児の中にプロが一人混ざっているようなものだ」ということから致し方ないことだったと釈明していたという。だが、これによって観客からは多くの罵声や怒号が相次ぎ、試合終了後も明徳義塾に報道陣や過熱したファンが押し寄せるなど警察が警護するほどの一大騒動へと発展、精神的ダメージを受けた明徳義塾はその次の試合で大敗してしまった。

彼の計り知れない実力にまつわる話は多く、彼が渡米して打撃不振に陥った際、長嶋茂雄は彼との電話越しに素振りの音をチェックしていたという逸話も残っている。現役時代、あまりに独特の言葉遣いによる指導が目立った長嶋であったが、松井はその内容を理解できていた数少ない人物であったとの話もある(もう一人は高橋由伸だったとも言われている)。

彼は2009年にヤンキースを去ったが、それについてもある逸話が語られている。実は、2009年にワールドシリーズ優勝となって以降、ヤンキースは実におよそ14年に渡って優勝から遠のいてしまっているのだ。このことは、一部ファンの間で「ゴジラの呪い」などと呼ばれているという。

この現象は、かつてベーブ・ルースがトレードで放出されたことにより、レッゾ・ソックスが1918年から実に86年もの間優勝から遠ざかっていたという「バンビーノの呪い」にあやかって呼ばれたジンクスだ。

【参考記事・文献】
松井秀喜
https://dic.nicovideo.jp/a/%E6%9D%BE%E4%BA%95%E7%A7%80%E5%96%9C
松井秀喜
https://dic.pixiv.net/a/%E6%9D%BE%E4%BA%95%E7%A7%80%E5%96%9C#h2_2
松井秀喜プロフィール
http://matsui-55.net/profile/
松井秀喜の凄さと伝説。長嶋茂雄との素振り、打球速度と飛距離もワールドクラス
https://asuneta.com/archives/96083
松井秀喜伝説
http://matsui-55.net/legend_55/

【文 ZENMAI】

Photo credit: Matt Garland on VisualHunt