井原西鶴と言えば、江戸時代を代表する浮世草子・人形浄瑠璃作者そして俳諧師である。
『好色一代男』(1682)の出版によって瞬く間に人気を博し、その後も『好色五人女』『日本永代蔵』『世間胸算用』などの出版によって大ヒットを飛ばし、特に仮名草子と区別された浮世草子という新たなジャンルは後世の日本文学に多大な影響を与えた。
井原西鶴は、幼少のころの詳細がわかっておらず、1642年ごろの生まれではないかと推定されている。大坂の商家の出ではないかとの説が根強いが、近年では和歌山の出身ではないかとの説もある。実家が何らかの商売を営んでいたことで非常に裕福であったと言われているが、当の本人は商売にあまり興味がなく、15歳で俳諧の道に進むようになったという。
40代になり作家へ転向するまで彼は俳諧で活躍していたが、そこで数々の伝説を生み出している。俳諧とは、575と77を互いに複数人でつなげて詠んでいく詩形スタイルの「連歌」から分岐し、面白おかしく、遊戯性を高めたものとして発展した江戸時代の文芸の一つだ。
始めてからわずか5年後の1662年には、俳諧の善し悪しを判定する点者(てんじゃ)を生業にしていたほど、かなり極めていたことがうかがえる。その後、さまざまな流派がある中で井原西鶴は、当時特に有名であった談林派の一門に入り活躍していたと言われている。このころ、それまで名乗っていた「鶴永」という号を改め、師匠であった俳人の西山宗因から名を取って「西鶴」と名乗り始めたと言われている。
さて、俳諧師としての彼の活動については、次のようなものがある。
1673年、30代になっていた彼は大坂の生國魂神社の南坊で万句俳諧の興行を行なったという。これは、100韻を100巻詠み重ねて文字通り10,000句を披露するというパフォーマンスの一種であり、彼はこのとんでもないパフォーマンスを12日間で達成し、のちに『生玉万句』として発表している。
彼はまた、一昼夜の間にどれだけ俳諧を詠めるかを競う「矢数俳諧」を創始したと言われている。矢数俳諧の興行を幾度も行なっており、妻が亡くなった際には追善興行として1,000句を詠んだという記録もある。1677年には生國魂神社にて1,600句という数の句を詠み、その記録を自慢げに語っていたという。
しかし、その記録は半年後に1,800句を詠む者や、さらに2年後には3,000句の独吟興行を達成した者が現れたことで破られてしまった。だが、そこでトップの座を奪われた彼は負けじと奮起し、1680年に生國魂神社で4,000句を詠む独吟興行を行なったことで、それまでの記録を大きく塗り替えることに成功した。
そして、今もなお伝説として語られるのは1684年に摂津住吉の社前で行なわれたという独吟興行である。そこで彼は、一日・一晩のうちになんと23,500句も詠んだというとんでもない記録を打ち立てることとなったのだ。目立ちたがりで派手好きであったという彼ならではの、仰天するような伝説の一つである。
【参考記事・文献】
井原西鶴の多彩な才能と生涯 「超負けず嫌いだった」
https://kusanomido.com/study/history/japan/edo/57457/
井原西鶴とは?代表作品や小説「日本永代蔵」、俳句について解説!
https://history-men.com/ihara-saikaku/
井原西鶴は何をした人?江戸・元禄文化を代表する人気作家の人生をわかりやすく解説
https://rinto.life/135200#h25
【文 ナオキ・コムロ】
画像 ウィキペディアより引用