1960年代から80年代にかけて活躍し、現在もなお伝説として語られる漫才コンビといえば、横山やすし・西川きよし、通称「やすきよ」だ。
ともに高知で生まれ大阪で育った身の上でありながら、横山はたびたび暴力や暴言などでトラブルを起こし、一方の西川は誰に対しても誠実で腰が低くストイックに仕事をこなすなど、その性格はまるで正反対とも言えるコンビであった。
しかし、その漫才のスタイルは「やすきよ漫才」と称されるほど絶大な人気を誇り、笑いに息をつく暇も与えないほどの掛け合いや、激しいアクションなども交えたその新感覚の漫才は、後世に多大な影響を及ぼした。
漫才に対する信念や情熱は両者とも並々ならぬほどであったとも言われており、特に西川は「50回は練習しなければ笑ってもらえない」と明言するほどに洗練さを重視していたようである。
一方の横山は稽古嫌いだとも言われているが、まだ無名時代であったダウンタウンを「チンピラの会話や」と痛烈に批判したり、また大御所漫才コンビ中田ダイマル・ラケットの晩年の漫才に横山ノックが「衰えたね」と放言したのを耳にし、師匠でありながら大激怒したり、と言った漫才への独自の思想を有していたようだ。
横山がこよなく愛した競艇や、セスナの購入、タクシー運転手への暴力事件など、横山の生き様がそのまま漫才に投影されていくのが一つの大きな味となっていた。また、交互にボケとツッコミを入れ替えるスタイルとして現在では「笑い飯」が知られているが、ボケとツッコミが入れ替わるという手法の先駆けとなったのは、実はやすきよの漫才であったとも言われている。
前述したように、横山は競艇についてはアマチュア選手として出場するほどに熱を入れていた。ある時、冠番組の収録日であったその日、横山本人からスタッフのもとへ急病で出られないとの連絡が入った。それを聞いて慌てたスタッフが西川へ説明すると、彼は事情を察知し単独で出演することとなった。
だが、なんとこの日、横山は内緒で競艇のレースに出場をしていたのだが、あろうことか横山はその大会で優勝をしてしまったことで、急病がウソであったことがあっさりとバレてしまった。気を遣ってそのことをスタッフに言わず黙っていた西川も、「なんでよりによって優勝するねん」と呆れたという。
実のところ、そんな横山も西川のことは恐れていたようであり、横山が仕事に遅刻してきた際、激怒した西川が彼をぼこぼこにしたということもあったと言われている。因みに、両者ともに弟子を持っていたが互いにその修行は非常に厳しく、横山の弟子であった横山たかし・ひろしは松竹へと逃げ、西川の弟子であった西川のりお・上方よしおの西川のりおは、実家に逃げ帰ったほどであったそうだ。
破天荒と称される横山のほうに注目がいきがちであるが、かつてビートたけしが語ったように「西川きよしさんがいて初めて横山やすしさんが活躍できた」ということは確かであろう。
もともと、両者が吉本の若手だった時代、西川へ「一緒に漫才してくれ」と頼み込んだのは横山のほうであったが、その時横山は既に4度もコンビを解散していた。タクシー事件の際には横山が西川宅を訪ね「新しい相方と頑張ってくれ」と涙ながらに答えたと言われている。
伝説と化すほどに今もその名を轟かせるのは、やはり両者の相性が見事に合致していたことの証左だったのだろう。
【参考記事・文献】
横山やすしの息子が明かす「やっさんトンデモ伝説」
https://gendai.media/articles/-/55727
西川きよしの若い頃、相方とのエピソード。出身は高知。弟子との関係と悲劇
https://asuneta.com/archives/95832#toc2
横山やすしの最期(死因)はアルコール中毒。伝説エピソードや息子、ダウンタウンとの関係は?
https://x.gd/kAzGv
【文 黒蠍けいすけ】