小田原征伐で北条家を滅ぼし、九戸政実の乱によって天下統一を成し遂げた豊臣秀吉は、次なる狙いとして明の征服を目指すこととなり、その足掛かりとして当時李氏朝鮮が治めていた朝鮮半島へ出兵した。この「朝鮮出兵」は1592から93年までの文禄の役、1597年から1598年までの慶長の役の2度行われたが、1598年に秀吉が死去したために日本側の全軍が帰国し講和もないまま終結を迎えることとなった。
結果として征服としては失敗に終わった朝鮮出兵であるが、その中でも激戦として語られているのは「泗川の戦い」だ。この戦いは、島津義弘率いる島津勢が明と朝鮮の連合軍の大軍を破ったことで知られる激戦であり、規格外の強さによって勝利をおさめた戦いとしても知られている。
秀吉の死によって勢いが増しつつあった連合軍は、日本側の倭城に攻勢をかけ始めることとなった。泗川の新城にいた島津義弘は大軍の襲来を予想し、味方全軍に泗川城への撤収を命じることとなった。だがそのさなか、董一元(トンイユァン)率いる3万7000(一説には20万)の大軍が川上忠実の古城を襲撃、150人が討たれるもなんとか川上は泗川の新城へ撤退を果たした。
この時、川上は部下に敵の食糧庫を襲わせ焼き討ちをし、敵軍の兵糧を失わせることに成功した。連合軍は、これによって短期決戦を余儀なくされることとなる。
わずか7000という数の島津の泗川城に、とうとう敵の大軍が押し寄せた。この時、島津は敵軍をギリギリまでひきつけ、大砲や鉄砲で城壁が破壊され歩兵がいざ大手門を乗り越えようとしたその時、ついに一斉射撃を命令を下した。至近距離での集中射撃に連合軍の突撃隊は粉砕され、虚を突かれた連合軍は一気にパニックに陥った。
この戦法は、島津のお家芸として知られる「釣り野伏」を応用したものであると言われている。
さらに、連合軍の後方で火薬庫が引火し大爆発を起こし、連合軍は収拾がつかなくなるほどに混乱が強まった。これを好機と見た島津軍は城門から打って出ることになったが、この時突撃の命令を待ちかねていた城兵たちが先を争って突撃したため、城門が開く暇もなかったという逸話も残っているという。
出動した伏兵によって敵軍の隊列は寸断され、自らも攻勢に転じた義弘自身も御年63歳という高齢に劣らず4人の敵を討り、息子の忠恒も7人を斬ったという。壊滅的な被害をうけた連合軍は壊走するも、それを南江まで島津軍が追撃し続けたことで多数の溺死者を出すこととなった。一方、味方の軍はたった2名の犠牲を出すにとどまり、圧倒的な勝利をおさめる結果となった。
この島津軍の大勝は、敵軍も「鬼石曼子(グイシーマンズ)」と称するほど恐怖の対象として知られるようになったと言われ、蔚山城の戦い、順天城の戦いも全て連合軍が大敗するなど、国外においても「鬼島津」の名を轟かせることとなった。
因みに、敵軍が攻めかかってきた際、大手から白狐一匹が敵に攻めていき、また水の手から赤狐二匹が敵勢と戦い、篤く信仰していた島津にとって「前代未聞の慶事」であり「ご神慮」であったと義弘も国許の兄義久に知らせたという伝説も残っている。
朝鮮出兵の評価については、秀吉自身の意図を含め諸説紛々としており現在も議論が続いているが、少なくとも島津が国外でも通用し得るほどの圧倒的な強さを誇っていたという事実は間違いないだろう。
【参考記事・文献】
朝鮮出兵で猛将・島津義弘を助けた「赤と白の狐」の正体
https://www.kk-bestsellers.com/articles/-/8601/#google_vignette
泗川の戦い~鬼石曼子こと島津軍が朝鮮出兵で大奮戦
https://rekishikaido.php.co.jp/detail/4392
「文禄の役」「慶長の役」とは? 朝鮮出兵の背景や結果について知ろう【親子で歴史を学ぶ】
https://hugkum.sho.jp/603246
【20万vs5000】規格外の強さで朝鮮の大軍を殲滅した鬼島津の激戦|泗川の戦い
https://x.gd/J7BIx
【アトラスラジオ関連動画】
【文 黒蠍けいすけ】
画像 ウィキペディアより引用
TOCANA関連記事
【天下の奇習】千葉寺の「千葉笑い」一度消滅し復活を遂げた奇妙な風習