サブカル

実は歌いたくなかった?「春日八郎」と代表曲『お富さん』の絆

昭和を代表する歌手の一人であり、大ヒット曲の一つ『別れの一本杉』により演歌の第一人者とも称された人物といえば春日八郎である。

意外にも、10代半ばに浅草で藤山一郎のステージに感銘を受けるまでは歌に対する関心がなかったというが、その後徴兵などの紆余曲折を経て30歳の目前にして『赤いランプの終列車』で日の目を見ることとなった。

春日八郎の大ヒットかつ代表曲として知られるものにもう一つ『お富さん』がある。「お富さん」は、波乱万丈の恋愛模様を描いた歌舞伎の演目「与話情浮名横櫛」をモチーフとした楽曲であり、当初は岡晴夫が歌唱する予定であった。

ところが、直前になり岡がフリー宣言をしたことによって、当時まだ若手であった春日が急遽歌唱することとなった(代打には若原一郎も想定されていたという)。結果、リリースから4ヶ月で40万枚、累計で125万枚を売り上げるという驚異的なヒットとなった。

本楽曲は、当時宴会で歌われていた卑猥なお座敷ロングに代わる、軽い調子で替え歌にしやすいものであることを狙って作られたものであると言われている。春日を象徴するタキシード姿とそれにミスマッチした和風の軽快な楽曲というギャップも注目され、歌詞にある「死んだはずだよお富さん」は流行語にもなった。

一方で、その流行は子どもたちの間でも広まっていたため、「仇な姿の洗い髪」「他人の花」といった艶っぽいフレーズを子供たちが”意味もよく分からずに”口ずさんでいることに、教育上問題があるのではないかと社会問題にまで発展してしまったという。




実は、この「お富さん」は春日自身にとっても悩みの一つになっていたと言われている。「お富さん」が社会現象化している中、あるラジオ番組にて春日は「お富さんなんかきらいだ、吹き込みたくなかった」という発言をしてしまい物議を醸したとという。

この失言については、陳謝をしたことで落ち着いたということだが、春日にとって「お富さん」の爆発的ヒットはいわゆる”一発屋”になってしまうという危機感を強めたものになっていたようだ。

実際、「一曲がヒットしすぎると後が続かない」「お富さんが消える時が春日が消える時」などという周囲の声も聞かれていたという。春日も、もともと代打として歌唱したという経緯もあってか、「俺とは本来違うもの」という意識が拭い去れないままでいたようである。

結果的に、『別れの一本杉』のヒットによってその危機は免れることとなり、彼の歌手としての地位は確立されることとなった。

その後、「お富さん」はディスコバージョンとしてカバーされリバイバルヒットを飛ばし、また春日にとって生涯最後の紅白歌合戦で歌唱した曲ともなり、最後には彼が亡くなった後の葬儀の際には参列者全員で合唱したほど、切っても切れない曲となった。

「お富さん」は、明るい曲調とは裏腹に壮絶な愛の物語を描いており、再会を果たした二人の結末が悲しいものだと暗示されるもののそれでも互いに離れないことを誓う内容となっている。

一時は距離を置こうとした春日であるが、最後となる時に締めくくりとなった「お富さん」は固い絆で結ばれるようになっていったのかもしれない。

【参考記事・文献】
春日八郎の死因とは。高い身長&息子・娘・家族まとめ
https://asuneta.com/archives/49709
春日八郎「お富さん」歌舞伎がモチーフの歌詞の意味を考察!再会から始まる愛の物語が綴られている?
https://utaten.com/specialArticle/index/8035

【文 ナオキ・コムロ】

画像 ウィキペディアより引用