ウズベキスタンの首都タシュケントにある「アリシェル・ナボイ劇場」(ナボイ劇場)は、1939年から47年にかけて建設されたオペラとバレエの劇場だ。
レンガ造りの3階建てで、収容観客数1400人、舞台540平方メートルの広さを誇る。ビザンチン風の建築となっており、内部は中央アジア各地域の特色を生かした壁装飾で彩られている。第二次世界大戦によって工事が一時中断されたが、戦後に再開され、ロシア革命30周年の1947年に間に合って完成することとなった。
ナボイ劇場が注目されたのは1966年のこと。この年の4月26日(現地時間)、首都タシュケントを震源とする地震が発生した。タシュケント地震と呼ばれるこの地震は、マグニチュード5.0と規模は大きくないながらも、震源が非常に浅い直下型地震であり、また余震が1000回以上続き甚大な被害をもたらし、およそ78000棟もの建物が倒壊した。
60年代までの世界各地の地震の中でも5本の指に入るほどの大地震であったタシュケント地震であったが、そのような地震の中でナボイ劇場は全くといって良いほど損傷が見られず、当時は避難場所として重要な機能を果たすこととなった。ナボイ劇場が、なぜこれほど大地震に無傷で耐えることができたのか。それは、この建設の仕上げに日本人が加わっていたからであると言われている。
戦後、ソ連の捕虜となった日本人は60万人と言われており、当時ソ連の一部であったウズベキスタンにも25000人もの日本人が強制労働を課せられていた。この時、永田行夫元陸軍技術大尉率いる「タシュケント第四ラーゲリー隊」およそ450人がナボイ劇場の建設に派遣されることとなった。
強制労働は、猛烈な寒さに加えて飢餓やシラミ、そして差別といった過酷な環境の中で行なわれることとなった。しかし、隊長である永田は、「こんな時こそ日本人ならではの結束を見出すべきだ」「捕虜だから作りが雑であると笑われることがないように」という一心から、懸命に作業を行なったという。
彼らが仕事場へ向かうゲタの音を目覚まし代わりにしていた現地民がいた、と言われるほどに彼らの時間は正確であり、またその働きぶりは現地の人々の心情にも変化をもたらした。当初は、日本人を「ナチスと同類」と考えていた現地民も、その真面目ぶりに心をうたれ、罰せられるリスクがありながらも日本人に食物を分け与える人々もいたほどであった。
戦後の工事再開から完成まで3年かかるであろうと考えられた劇場は、永田たち日本人によって大幅に上回る2年で完成した。この間、過酷な環境下によって2名の犠牲者が出てしまったものの、永田たちは無事帰国することとなった。
その後、独立したウズベキスタンでこのような話が残っている。当時就任したカリモフ大統領が、劇場裏手の記念プレートに、「日本人捕虜が建てたものである」と記載があるのを見て、「ウズベキスタンは日本と戦争をしたことがない。日本人を捕虜にしたことはない」と指摘し、新たなプレートが作られた。そこには、「数百名の日本国民が完成に貢献した」といった旨が書かれることとなった。
他国で建てられた日本人の手による建造物が、高い評価と信頼を獲得しているという例はいくつもある。ナボイ劇場を含め、そうした日本人の堅実さや技術の高さを再認識し、それを我々自身や後世の人々へ引き継がれるよう見習うべき部分は多い。
【参考記事・文献】
【813人の日本人が】寒さ、飢え、シラミ、差別を乗り越えて日本人捕虜が作り上げた物に、ウズベキスタン人は言葉も出なかった。
https://www.imishin.jp/navoi-theater/
ナボイ劇場とは
https://navoi.nobuhiko-shima.com/navoiopera.html
(ナオキ・コムロ 山口敏太郎タートルカンパニー ミステリーニュースステーションATLAS編集部)
画像 ウィキペディアより引用 CC0