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原作と作画の揉め事に留まらない?!漫画「空手バカ一代」の因縁

画像『空手バカ一代(1) (講談社漫画文庫)

1970年代に週刊少年マガジンに連載されていた『空手バカ一代』は、梶原一騎原作の漫画・アニメ作品であり、極真会館の名を世に広めた当時の人気漫画作品である。

前半は、空手家で極真会館の創始者である大山倍達(おおやまますたつ)の武勇伝を中心に描いており、以後の後半では弟子たちが日本・世界に勢力を広げていくという作風へと変化している。また「事実を基にしたノンフィクション」を売りにしていたことも大きな特徴であるが、のちに梶原自身によって9割は創作であることが認められている。

本作の作画は、全6章のうちつのだじろうが第3章までを担当し、第4章から第6章までを影丸譲也が担当しているため、途中から絵柄が変化している。

しかし、つのだが作画から離れた理由については少々不穏な事情が絡んでいたようだ。

作画を担当していたつのだによって、『週刊少年チャンピオン』に大山自身が原作を手掛けた伝記漫画『ゴッドハンド』が発表された。このことについて激怒した梶原はアイディアの盗用だとしてつのだを詰問、さらに当時のチャンピオン編集長までもが梶原の定宿に呼び出されこの件を追及されたという。

このことが原因でつのだは、梶原およびその実弟である真樹日佐夫と不仲となった。結果として、つのだは「空手バカ一代」の作画を降板することとなり、また梶原側からの圧力によって「ゴッドハンド」は9週で打ち切りとなった。だが、打ち切りとなった後も梶原の嫌がらせや脅迫が止むことはなかったという。

つのだの作画降板後、2代目の作画によって作品連載が継続されていたが、つのだの作画担当時ですでに大山のストーリーは一通り描きつくされてしまっていた。そのため、大山の弟子が活躍するような内容へと変容していった。いわば、極真会館の宣伝の比重が大きくなったのだが、その後「自分が作品に出ていない」「なぜアイツばかりが活躍するんだ」といった不満が上がるなどして極真空手内部の不和の種にもなってしまったという。




そもそも、入稿期日の前日に原作、原稿が送られてくるなど当時の現場は荒れに荒れており、このハードな作業スケジュールによって、つのだのもとから逃げ出すアシスタントが後を絶たなかったという。こうした積年の鬱憤に対しつのだは、ある形でそれを晴らそうとした。

「ゴッドハンド」が打ち切りとなったのと同じ1978年に『ビッグコミック増刊号』で連載されていた『魔子』という自身の作品の最終回で、「カラワジ・イキツ・キマト・ワヒオサ・ハノクキョウ・ミツオ・レシモオイ…呪われよ!」「カチク・ツテバン・ダクリノノロイ・オウケミクニク・ルクシミ・クタルバ…呪われよ!」といった呪文めいた言葉が使用された。

この呪文は、「梶原一騎と真樹日佐夫は脅迫の罪を思い知れ」「近く天罰下り呪いを受け醜く苦しみくたばる」というテキストの並べ替え(アナグラム)となっていたのだが、すぐに梶原と真樹に発見されてしまうこととなった。

これによってつのだは、新宿の京王プラザホテルに軟禁されてしまい、各出版社や漫画家仲間に詫び状を書かせられるという仕打ちを受けた。このことは、「つのだじろう詫び状事件」として知られている。

その後も、つのだの怒りはおわまることなく、大ヒット作品『恐怖新聞』内にも梶原がモデルと思われるキャラクターを”嫌われ者”として登場させたという。なお、詫び状事件ののち、梶原は傷害によって逮捕されることとなるが、それによって明るみになった余罪の数々により作品の評価が地に堕ちる結果となってしまい、そして膵炎で健康を損ない50歳という若さで死去した。

こうした一連の問題や騒動は、つのだの作画降板のあとに立て続けに発生していた。『空手バカ一代』は、つのだの恨みや呪いによって、この時あたかも呪物であるかのように変化してしまっていたのかもしれない。

【参考記事・文献】
空手バカ一代
https://w.atwiki.jp/aniwotawiki/pages/5804.html
空手バカ一代の作画がつのだじろうから変わった理由

空手バカ一代と監禁事件
http://961775.seesaa.net/article/438816463.html
つのだじろう
https://dic.pixiv.net/a/%E3%81%A4%E3%81%AE%E3%81%A0%E3%81%98%E3%82%8D%E3%81%86

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(ナオキ・コムロ 山口敏太郎タートルカンパニー ミステリーニュースステーションATLAS編集部)