2011年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震。関東でも大きな揺れを観測したこの大きな揺れは、都内に所在する東京タワーの先端の支柱が変形してしまったほどであった。
2012年7月10日、この支柱の修理工事が行なわれることとなったのだが、実に地上から306mも離れた支柱の中から「軟式野球ボール」が発見された。
同年12月よりこの謎の野球ボールは一般展示されることとなったが、なぜそんなところに野球ボールがあったのかはハッキリと明言されることはなかった。
東京タワーには、実に奇妙で強烈な逸話が多く残っている。特に東京タワーの建造工事は、今や再現できそうにない逸話の数々が語り継がれている。
東京タワー、正式名称「日本電波塔」は、当時続々と開局していた放送局の電波塔を一本化するという目的で建設が開始され、1958年に竣工(完成)した。333mは、当時世界一高い塔であったエッフェル塔よりも9m高く、自立式鉄塔としては世界一を誇った。
設計を担当したのは、建築学者内藤多仲(たちゅう)と日建設計であった。内藤は、名古屋テレビ等や二代目通天閣の設計にも携わった人物であり、塔博士と呼ばれていた。
この時彼らが作成した設計図は、なんと1万枚を超えたと言われている。前に挙げたエッフェル塔の設計図が5300枚であったことと比べると2倍にもなる。これは、風や地震に耐えうる緻密な設計を要しなければならなかったためであるが、これによって東京タワーは、完成翌年の伊勢湾台風にも、東日本大震災でも倒壊することがなかった。
ただ、それらすべての設計図が完成した時には、すでに基礎工事が開始されていた。さらに、これら設計図はわずか3ヶ月という短期間のうちに作成されており、しかもコンピュータも無かった時代であったためにすべてが手計算で行なわれていた。
さらに、実際の現場での作業は極めて過酷な状況で行なわれた。
当時、現場作業していた黒崎建設の鳶職人たちは、当初安全帯も装着していなかった。この時代の作業環境としては決して珍しいことではなかったが、流石に工事後半では着用されることとなった。また、クレーン車が無かった当時はゴンドラで資材が運ばれていたという。
この時の建設伝説として知られているのが、「死のキャッチボール」と呼ばれるものだ。東京タワーには、約16.8万本ものリベット(鋲)が接合されているのだが、火鉢で800度に熱され赤鉄の塊にしたそのリベットを長い鉄箸ではさみ、なんと上方の作業場へ投げる。それを、待ち構えていた職人が柄のついた鉄のバケツでキャッチし、鉄骨の穴に差し込む。
高温のリベットを20m上にいる職人に放り投げることもざらであったと言われており、このやりとりは完成まで実に28万回もなされていたと言われている。このような作業環境であったものの、1957年6月29日から翌年12月23日まで、1年半という異例のスピードで東京タワーは完成。
ところで、冒頭で触れた「謎の野球ボール」であるが、空き地に置かれた建設資材に子供たちが遊んでいた野球ボールが紛れ込んだという説や作業員が記念に入れたという説があった。
だが、作業現場においては、先に登場したリベットを接合する際に体重をかけて押さえつけるという工程があり、その防振としてクッション代わりに軟式ボールが使用されていた他の工事において実際に行なわれていた例があるという。いわば、軟式野球ボールは工具部品の一つとして扱われており、東京タワーの建設においても同じ手法で行なわれていた可能性が高い。
野球ボールは、50年もの時を経て開封されたタイムカプセルであったのかもしれない。
【参考記事・文献】
東京タワーに隠された「謎の野球ボール」
https://zatsuneta.com/archives/006543.html
333メートルの東京タワーの設計図は1万枚
http://www.st39.net/hanashinoneta/z367.html
東京タワーの設計図は合計何枚でしょう?
https://ameblo.jp/bardyslatosi/entry-12242273661.html
東京タワー建設を徹底解説【鳶職人たちの死のキャッチボール】
https://kensetsu-gyokai.com/tokyotower/
東京タワーの先端から軟式野球ボールが見つかった謎の答えを教えてあげる
https://future-construction.info/2017/07/07/tokyotower/
(ナオキ・コムロ 山口敏太郎タートルカンパニー ミステリーニュースステーションATLAS編集部)
画像 ウィキペディアより引用
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