テルアビブ空港乱射事件は、1972年5月にイスラエル第二の都市テルアビブ近郊にあるロッド国際空港(現在のベン・グリオン国際空港)で発生したテロ事件である。
赤軍派の日本人3人が自動小銃と手榴弾を用いて無差別に乱射するというこの事件は、プエルトリコ人17人、イスラエル人8人、カナダ人1人の計26人の民間人が死亡し、80人もの人々が重軽傷を負う惨事となった。テロリストが無差別に一般市民を襲撃するという、当時としては前代未聞の事件であった。
なぜ、日本人がこの事件に関与することになったのか。ことの経緯は、1967年に「パレスチナ解放人民戦線」(PFLP)が結成されたことから始まる。
マルクス・レーニン主義の元、パレスチナ解放を目的としたPFLPは、テロに訴えてでもパレスチナに世界の注目を集めるという過激な組織に分類された。このPFLPが、1972年5月8日、ベルギーのブリュッセル発テルアビブ行のサベナ空港のボーイング707型機をハイジャックするという、「サベナ航空572便ハイジャック事件」を起こした。
彼らは旅客機をロッド国際空港に着陸させ、イスラエル政府に対して逮捕された仲間315人の解放を要求するに至った。だが、政府はこの要求を拒否し、国防軍特殊部隊を突入させて、ハイジャック犯4人のうち2人を射殺、残り2人が拘束される結果となった。
この計画の失敗にPFLPは報復を決意することとなり、今度はロッド国際空港への襲撃を企てた。この時、前回のハイジャックの件で厳重な警戒がとられるようになったことにより、アラブ人ではすり抜けることが不可能となっていた。そこでPFLPは日本の赤軍派奥平剛士に協力を仰ぎ、計画は彼を含め3人の赤軍派日本人が決行することとなった。
彼らが協力を依頼されたのには理由がある。当時、国内では赤軍派による交番襲撃などが相次いた。彼らは首相官邸襲撃も計画していたほどに過激な組織として活動していたのだが、それと同時に彼らの検挙も活発化していった。
これにより、メンバーは国際根拠地論といういわゆる海外への亡命を展開し始め、これに賛成したメンバーはよど号をハイジャックし北朝鮮へ亡命、うち海外亡命を図ったメンバーである奥平、そして2022年に刑期満了で出所したことで話題となった元日本赤軍幹部の重信房子らはパレスチナへと赴いた。
そして、奥平はPFLPの国際義勇兵として参戦するに至ったという。なお、当時の彼らは「アラブ赤軍」などと自称しており、日本赤軍という組織での認識はしていなかったという。日本赤軍が組織として公式に呼ばれるようになったのは、事件後の1974年である。
実行犯であった奥平、安田安之、岡本公三のうち、奥平は警備隊の反撃により射殺、安田は手榴弾で自爆、そして岡本は逃走を図るも航空職員に取り押さえられ、唯一の生存者となった。
中東過激派の中では、奥平と安田を捨て身の攻撃として称賛する声も上がったが、これらに対する証言には曖昧な部分も多いため詳細はわかっていないという。のちにPFLPと重信は、この事件発生日を「日本赤軍結成の日」と呼んだという。
この事件は、のちのイスラム武装勢力に多大な影響を与えたとも言われており、奥平や安田の捨て身とされた攻撃への英雄視から、本来自殺を禁止していたイスラム教義に反して捨て身の攻撃を「ジハード」と解釈する要因を作ったともされている。また、スーツケースに武器が入れられていたということで、世界各国における空港での厳重警備の一因にもなったという。
多くの政治や思想が背景となっていたこのテロ事件であるが、やはり、多くの人々にとっては「なぜイスラエルと無関係の日本人が実行犯となったのか」について理解しがたいものとして映る。幸いなことは、イスラエルとの外交関係が悪化することがなかったこと、そして何より赤軍派が望んだ日本国家転覆がなされなかったことだろうか。
【参考記事・文献】
テルアビブ空港乱射事件から49年 元日本赤軍「岡本公三」容疑者の今
https://www.dailyshincho.jp/article/2021/05300600/?all=1
イスラエルから見た「日本赤軍」の謎 50年前の空港乱射事件、イスラエル人はどう受け止めたのか
https://dot.asahi.com/articles/-/39769?page=1
【ゆっくり解説】テルアビブ空港銃乱射事件について
https://x.gd/UXksO
(黒蠍けいすけ 山口敏太郎タートルカンパニー ミステリーニュースステーションATLAS編集部)
画像 ウィキペディアより引用