江戸幕府第三代目将軍である徳川家光は、武家諸法度や参勤交代制そして鎖国体制といった諸制度を整備し、江戸幕府の基礎を確立し江戸幕府の繁栄の立役者の一人ともなった将軍である。
幼名を竹千代と呼び、二代目将軍秀忠とお江(ごう、あるいは崇源院)を父母とし、春日局が乳母であったといわれている。
彼は生まれつき病弱で無口な子供であったという。そのせいか、周囲からは次期将軍として弟の忠長のほうが注目され、またお江からも疎まれていたために、自殺を図ろうとしたことまであったという。
当時、稲葉正成の妻であり、のちに江戸城大奥の礎を築いたと言われるお福(春日局)は、家光の乳母として江戸へ赴いた。家光に対して愛情を注いでいた彼女であるが、家光を取り囲む事態を重く見た彼女は伊勢参りを口実に駿府の徳川家康に現状を直訴しに赴いたという。
この結果、家康は春日局の意見に賛同し、彼の言によって家光が三代将軍になることが決定することとなった。
この家康の判断は、家督は長子が継ぐものであるという旧来の考えを固持していたことが影響したとも言われているが、なぜ一介の乳母にすぎなかった春日局が家康を動かせたのかについては疑問が持たれている。このことについては、家光の本当の父母は家康と春日局だったのではないかという説が存在している。
秀忠とお江の間に生まれた子供の数は、11年間で8人に及ぶと言われているがかなりペースが速い。当時は正室が管理する次女に子を産ませるシステムがあり、また生まれた子は正室の子と扱われることとなっていた。
春日局は、そうしたいわゆる代理母の一人であったのではないかと考えられており、彼女が家光を溺愛し、また母とされるお江から疎まれていた理由として説明がなされている。
また、家康は彼女に対して特別な感情を持っていたのではないかと言われている。彼女の離別した元夫である稲葉正成は、関ケ原の戦いで小早川秀秋を寝返りさせるよう働きかけた人物であり、家康にとって恩人でもあった人物である。このことから春日局を厚く信頼していたとも言われている。
家光の母が春日局ではないかという根拠として、江戸城の紅葉山文庫に収蔵されている『松のさかへ(栄え)』がある。この第一巻「東照宮様御文」には、「秀忠公御嫡男 竹千代君 御腹 春日局 三世将軍家光公也」、すなわち家光を生んだのは春日局だという記述がなされているのである。
さらに、家康が父親ではないかという根拠に、日光山輪王寺には家光が生涯持っていたという御守袋の存在がある。この中には、「二世権現、二世将軍」と書かれた紙が入っているという。
父秀忠を差し置いて「二世」と呼べるのは、家康が家光の実父であったことに他ならないというのがこの説の根拠となっている。
事実であるとすれば、彼が江戸幕府の盤石を築き上げたのは、そうした家康に対する恩情や威光に負うものがあったからかもしれない。
【参考記事・文献】
山口敏太郎『日本史の都市伝説』
徳川家光とはどんな人?行った政策や功績、性格、死因まとめ
https://rekisiru.com/7602
家光の実母はお江ではなく春日局?ミネルヴァ日本評伝選『春日局』
https://bushoojapan.com/historybook/2023/05/20/98852
徳川家光(竹千代)の乳母・春日局の生涯と死因、徳川家康との関係
https://blotabi.net/japanese-history-sengoku156/
(黒蠍けいすけ 山口敏太郎タートルカンパニー ミステリーニュースステーションATLAS編集部)
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