源頼朝は、初代征夷大将軍として初めて武士による政権を作った人物であり、鎌倉幕府を作りおよそ700年近くに渡る武家政権の礎を築いたことで知られている。しかし、頼朝の死後は源氏による将軍は廃嫡となり、実権は北条氏によって奪われてしまうこととなった。
この嫡流廃絶の流れは頼朝の急な死によるものであるとされているが、その死因については実のところハッキリとしていないと言われている。通常唱えられている彼の死因は、『吾妻鏡』に記述されている「落馬」である。1198年(建久9年)12月、相模川の倒壊した橋の完成による落成供養に訪れた頼朝が、帰り道で落馬しその後亡くなってしまったというのだ。しかし、『吾妻鏡』の記述では、頼朝の死が13年も経ってから記録されており、しかも頼朝の死後3年間の記録も記述されていないのだ。
頼朝の死因については、他にも脳卒中・脳溢血説や糖尿病説といったものもあげられている。前者は、落馬説と合わせ落馬するほどの意識障害を起こしていたのではないかということ、後者については、公家である 近衛家実(このえいえざね)の日記『猪隈関白記』(いのくまかんぱくき)に、「前右大将頼朝卿、飲水に依り重病」すなわち大量の水を欲していたということから唱えられた説だ。
だが、病死であればその死をわざわざ隠すようなことはないはずである。この触れられなかったという点に関しては、異なる説によって仮説が立てられている。それは頼朝が過去殺害してきた人々の怨霊によって殺されたのではないかという「怨霊」説である。この説は、「怨霊に驚いた馬が暴れ出して落馬」「怨霊を目撃して失神し落馬」というようにも解釈され、当時が怨霊の存在を強く信じられ恐れられていたという事情から、13年も触れられなかったのではないかという一応の説明が可能となる。
しかし、この他頼朝の死因については暗殺の可能性も根強く囁かれている。一つは北条氏による暗殺という説である。北条氏が頼朝の死後に実権を握ったことは前述した通りであるが、のちに頼朝の長男である頼家は北条氏に暗殺されている。また、具体的な編纂者がわかっていない『吾妻鏡』は、北条氏の関係者であると言われていることから、頼朝の記述が不可解なのは都合の悪さから避けていたためではないかとも考えられるのだ。また、頼朝の浮気癖に激怒した北条政子が暗殺を謀ったという説もある。
もう一つは、反幕府派であった土御門通親(つちみかどみちちか)による暗殺という説だ。彼は朝廷の実力者であり、当時朝廷内で起こっていた派閥争いにおいて、彼率いる反幕府派が勝利していた。藤原定家の『明月記』によると、頼朝の死の知らせを受けた通親は、驚きもせずにすぐさま反幕府派の公家を登用する人事を行なったという。
頼朝は晩年、朝廷を掌握するため後鳥羽天皇に自分の娘を嫁がせようとしていたが、この行ないは自らも貴族になることを意図したものであるとして武家からは裏切りと見なされた節もある。これが、通親率いる反幕府派を強力なものとしたとも考えられているのだ。
当時のさまざまな思惑や風潮が、頼朝の死に収束したことは間違いないだろう。先の怨霊もそうだが、通親が安倍晴明の子孫であることも、頼朝を取り巻く憎悪が人々に恐怖と混乱を招いていたことは想像に難くない。仮に頼朝が病気や事故で亡くなったのだとしても、結果として都合よく北条氏にとって利となることとなった。
ある意味、頼朝は本当に呪われていたのかもしれない。
【参考記事・文献】
山口敏太郎『日本史の都市伝説』
【源頼朝の死因】鎌倉幕府をつくった初代将軍の死の謎に迫る
https://rekijin.com/?p=37462
源頼朝の死因とは!落馬説や暗殺説などの根拠をご紹介します
https://usefultopic.com/archives/9641.html#i-3
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(黒蠍けいすけ 山口敏太郎タートルカンパニー ミステリーニュースステーションATLAS編集部)
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