タイムトラベル

もう一つの白虎隊「二本松少年隊」故郷のために戦った少年兵たち

1868年から翌年にかけて、日本各地では旧幕府軍と新政府軍との戦争が相次いで勃発した。「鳥羽伏見の戦い」や「五稜郭の戦い」などが知られており、これら一連の戦争をまとめて戊辰戦争と呼ばれていることはご存じだろう。

白虎隊は、その戊辰戦争の一つである会津戦争で組織された部隊であり、15~17歳という年少の武家の男子によって編成されていた。
白虎隊といえば、戦況の悪化によって飯盛山へ逃げた隊士20名が、高台から燃え広がる城下を見下ろし、若松城が落城したと勘違いをしたことでみな自刃を決行したという悲劇の物語として語られる(うち一人は奇跡的に生き延び、のちに日清戦争にも従軍している)。

さて、白虎隊の会津藩と同じく現在の福島県にかつて置かれていた二本松藩。戊辰戦争において、この二本松藩でも白虎隊のような悲劇的な結末を迎えた部隊が存在していた。その名は「二本松少年隊」と呼ばれる部隊であり、12~17歳という少年兵たちで編成され総勢63名が所属していたと言われている。

この二本松少年隊という名前は、当時から呼ばれていたものではなく、のちに戊辰戦争没者五十回忌に刊行された「二本松戊辰少年隊記」のタイトルからとられたものである。

奥州の藩が次々と新政府軍に敗れ寝返っていく中、想定をはるかに超えるスピードの進軍によって二本松藩は切迫していた。圧倒的な兵力不足によって、藩は兵になる年齢に達していない少年や隠居していた老人までも出陣することになった。

当時、二本松藩では「入れ年」という藩独自の制度があったという。これは、本来20歳が成人となるにもかかわらず、18歳になった者が成人の届け出をして兵籍に就くことが出来るという、いわば2歳の鯖読みができる制度であった。状況が逼迫していたことによって、藩は17歳、さらには15歳にまで許可年齢を引き下げた。

すなわち、入れ年によって12、3歳までもが対象になったのだ。ただし、15歳までに引き下げられたのは、藩の少年たちの嘆願によるものであったと言われている。

自ら出陣を志願した少年たちによって緊急配属された当時名も無い少年部隊は、故郷を守ろうという強い志のもとで二本松の戦いに挑んだが、徹底抗戦の末の1868年7月29日正午前に二本松城が炎上し落城した。

二本松少年隊の悲劇は、自刃を選んだ白虎隊とは異なっている。勝目の無い少年たちの戦いの裏で抵抗を続けていた二本松城であるが、会津藩や仙台藩からの援軍も新政府軍の待ち伏せによって到達前に半壊や撤退をしてしまっており、城内にこもっていた重臣・家老がとうとう抵抗を断念、城に火を放ち自刃したのだ。

しかし、城外で戦っていた少年兵たちがそのことに気付くはずもなく、指揮する者や城内からの指示が途絶えて散り散りになり、次々と射殺されていったという。

落城の日、二本松藩では戦死者337名、他藩からの援軍の戦死者208名と言う結果の中、少年兵は14名の戦死となった。現在ではすっかり観光地となった二本松城跡(県立霞ヶ城公園)の敷地内には、少年たちが鉄砲の稽古をしていた場所に顕彰碑が建立され、公園入口には二本松少年隊群像が設置されている。

戦争とは、むごいものである。しかし一方で、自分たちの故郷を守ろうと最後まで奮起した少年たちがいたことも事実だ。このことを現代だからこそ、改めて考えてみるべきだろう。

【参考記事・文献】
もうひとつの戊辰戦争の悲劇「二本松少年隊」
https://kusanomido.com/study/history/japan/bakumatu/53077/#i-2
二本松少年隊~戊辰戦争に散った少年たち
https://rekishikaido.php.co.jp/detail/4141
二本松少年隊顕彰碑
https://tif.ne.jp/jp/entry/article.html?spot=1741
白虎隊をわかりやすく簡単に解説!
https://rekishiru.site/archives/3065
白虎隊とは?会津戦争で散った若き志士たち!
https://rekishi-den.com/edo/1086/
白虎隊だけじゃない!「二本松少年隊」の悲劇はなぜ起きたのか?
https://no-value.jp/column/45166/

【アトラスラジオ関連動画】

【文 ナオキ・コムロ】

画像 ウィキペディアより引用