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魔除けか?はたまた呪いか?大阪城の石垣に残る「人面石」

大阪城は、豊臣秀吉によって1583~85年にかけて築城された、日本の代表的な城の一つだ。1615年の大坂夏の陣で落城し一度消失しているが、江戸期になって再建され、昭和初期には天守が再建されている。現在は、国の特別史跡に指定されており、一帯は大阪城公園として整備され観光スポットとしても知られている。

この大阪城には、隠れたスポットと呼ばれる地点が存在し、それが一つの巡礼ポイントとして魅力ともなっている。1951年という比較的近年に確認されたもので、石垣の一ヶ所に積み石が1つ分抜き出したような「抜け穴」のような場所がある。明治以降に大阪城を占有していた旧陸軍が開けたものであると言われているが、その理由や目的についてはよくわかっていない。


さて、この謎の抜け穴と同様、大阪城の石垣に残るもう一つの隠れスポットがある。通称「人面石」と呼ばれるものであり、青屋門より二ノ丸内を南に進んでいくと見られる。角ばった石垣の中に一つだけ存在する丸みを帯びた積み石で、人の顔のように見えることからそう呼ばれるようになった。幕末ごろには既に撮影記録があると言われており、江戸時代の頃から人々に気味悪がられていたという。

獣人石、鬼面石などとも呼ばれているこの人面石は、本丸から向かって鬼門に位置しているため、「魔除け」の為に積まれたのではないかと通常は説明されている。しかしながら、これとは別にとある噂がかつては囁かれていたというのである。作家山口敏太郎によると、この人面石は豊臣秀頼の顔が浮き出たものであると言われていた時期があったそうだ。

秀頼といえば、豊臣秀吉と淀殿の間に生まれ、23歳のころに大阪城の燃え盛る炎と共に消えた人物だ。秀吉亡きあと、後援できる勢力の多くが失われていき、政治的資質の高い淀殿のほうが目立ち、さらには家康の老獪な策略にはまり込んでいくという、「悲劇のヒーロー」として取り上げられることが多い。




大阪城が焼失したあと、徳川家2代目秀忠の手によって豊臣色を払拭する形で再建がなされたという。秀頼は大阪城で生まれ、居城としそして大阪城で自刃したとされている。そのような思い入れの深い場所が、敵の手に奪われたということを考えてみても、その恨みは凄まじいものであろうことは充分に想像できる。その恨みが、石垣の中に人面石として現れているというのであれば、その念の強さにぞっとする思いがする。

しかし、それ自体を徳川が逆手に取ってしまったとしたらどうだろう。初期の徳川家では、僧天海をフィクサーとして様々な風水的意向に基づいた都市計画を行なったことで知られている。先述した通り、人面石は鬼門の方角にあり「魔除け」だと言われている。

平将門にまつわる神社を北斗七星の結界に設けたといった戦略がなされていたのであれば、秀頼の呪いの念を魔除けとして利用してしまったという背景も、ひょっとしたらあったのかもしれない。

【参考記事・文献】
・森田恭二『悲劇のヒーロー豊臣秀頼』
・真田幸村の抜け穴に謎の石組み……ちょっとマニアックな大阪城の見どころ
https://news.mynavi.jp/article/20140414-osakacastle/
・大阪城探訪
https://blog.goo.ne.jp/hikochan0820/e/443dcd82a6cf8953f22d2c4b88be5108
・人面石(鬼面石)
https://cmeg.jp/w/castles/5400/pins/10139

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(ナオキ・コムロ 山口敏太郎タートルカンパニー ミステリーニュースステーションATLAS編集部)

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