青森県にあるキリストの墓、石川県のモーゼの墓。世界の偉人が日本の地を訪れ、日本で亡くなっているという説や逸話はいくつも存在する。これらは、昭和初期に流行した古史古伝の著述に由来するものを出典とするものが多いようである。それは、仏教の開祖とされる釈迦(ブッダ)も例外ではなく、釈迦の墓と呼ばれるものが日本に存在すると言われている。
先述したキリストの墓でも知られる青森県には、釈迦にまつわる場所も存在している。青森市と五所川原市にまたがる梵珠山、近辺に「大釈迦」という地名が残るこの山には、釈迦の遺骨が埋まっていると言われている。東北に仏教を伝えたと言われる道昭上人が大陸へ修行のために渡り、その師匠から釈迦の遺骨を譲り受けたものが伝わったそうだ。
このことから、キリストの墓と同様、青森県に「釈迦の墓」が存在しているという逸話が知られることとなった。
しかし、青森県の釈迦の墓については、生前の釈迦が日本に渡来してきたというわけではなく、遺骨が持ち込まれたという点がキリストやモーゼと異なっている。実は、この青森県以外にも釈迦の墓と呼ばれる場所が日本には存在しており、それは長野県であると言われている。
この説は、考古学・歴史学の著述家山根キク(山根菊子)の著作によるところが大きい。その大筋は、釈迦が日本にやってきて長野の山中を修行地とし、修行後インドへ帰り、晩年に再び日本へ渡来し入滅したというものである。釈迦が修行したとわれる山は、長野県北安曇(きたあづみ)郡と新潟県糸魚川市の境に位置する雨飾山(あまかざりやま)だとされており、その尾根にある清滝に打たれて修行したという。
問題の釈迦の墓と言われているのは、川中島の戦いの史跡と言われる長野市の「甲越直戦之地の石碑」のある通称「首塚」であるというのだ。この首塚には、「徳本塚」と「法印塚」と呼ばれる2つの塚が残されており、川中島の戦いで命を落とした人々を葬ったといわれているが、実はこれらの塚は川中島の戦いよりも以前にはすでに存在していたとも言われているのである。このうちの法印塚こそが釈迦の墓だというのである。
興味深いのは、同市にある善光寺に伝わる逸話である。およそ1400年前に建立されたと言われる善光寺がまだ建つ以前、インドからとある高僧がこの地を訪れ、その後同地で亡くなったと言われているというのである。その高僧がなぜ日本に来ていたのか、なぜ信州の地で亡くなったのかについてはわかっていない。ひょっとすると、この高僧こそが釈迦だったのではないだろうか。
そもそも、なぜ日本の地に釈迦がやってきたかというと、釈迦の先祖が日本人であったという説に由来しているという。釈迦族のルーツは日種(にっしゅ)と言われており、この日種は「日の族」すなわち日本の民であるというのだ。すなわち、釈迦は自身のルーツである日本の地を故郷として、修行の地そして入滅の地として選んだということになるのだ。
現在ではあまり語られることのない釈迦の渡来の話。本来の仏教の形から独自の発展がなされているとはいえ仏教大国となった日本に、これほど仏教が馴染んだ形で残っているのは、そもそもが釈迦との強い結びつきに起因していると考えるとなんとも言えない縁が感じられる。
【参考記事・文献】
・山根菊子『光りは東方より』
・首塚(甲越直戦之地の石碑)
https://www.nagano-cvb.or.jp/furinkazan/siseki/entry/000152.html
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(ナオキ・コムロ 山口敏太郎タートルカンパニー ミステリーニュースステーションATLAS編集部)
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