権力者や武将が、敵を欺くためもしくは味方を掌握するために自分の身代わり、いわゆる影武者を置くということは珍しいことではない。
江戸幕府初代将軍である徳川家康にも影武者が存在していたという説が存在しているが、それは一時的なものではなく家康自体が影武者すなわち全くの別人と入れ替わったというのである。
家康の影武者説は、明治35年に教育者村岡素一郎という人物の自著『史疑徳川家康事蹟』に端を発すると言われている。彼の説によると、関ヶ原の戦いのおよそ40年も前の時点で家康は若くして家臣の手により暗殺されており、世良田二郎三郎元信という人物に入れ替えられたというのである。家臣に暗殺されるという話は、家康の祖父松平清康にも酷似した記録があるが、実は家康の死を隠すために清康の話として改竄されたものではないかと言われているのだ。
世良田二郎三郎元信は、母が家康と同じ於大であり父は祈祷僧江田松本坊という人物だったという。家康が暗殺された当時、家康の長男である竹千代(信康)がまだ3歳だったということもあり、母親が同じく家康と顔立ちが似ていたという元信が、替え玉に仕立て上げられたのではないかというのである。
この説の決め手とされているのは、織田信長の命令によって行なわれたという信康の切腹である。元信には実子である秀康と秀忠がおり、実子の家督を継がせるために本物の家康の子である信康が邪魔となっており、そのため何の躊躇もなく長男を切腹させることができたというのである。
この説が本当であれば、徳川家は当初の時点で、本来つなぎであったはずの元信により実権を掌握され、徳川家は影武者の血が受け継がれていったことになるのだ。もっとも、これら村岡説は根拠に乏しく、著書が世に出た当時も学界から無視されることとなる。しかし後世、小説家隆慶一郎などによる新解釈なども経ながら、家康影武者説は現在まで唱えられる有名な説となった。
その隆は、「関ヶ原の戦いでの戦死」によって影武者が立てられたと自著で主張する。隆は村岡説について家康の死が早すぎるとし、関ケ原の戦いによって戦死したのち元信に入れ代わったと唱えているのだ。
家康影武者説には他にも大坂夏の陣の説がある。真田信繁との交戦に敗北し駕籠に乗せられ逃亡する際に後藤基次の突き刺した槍によって負傷し、大阪の堺の寺に運び込まれたがそのまま死亡したとするものである。
この説の興味深い点は、堺市の南宗寺に「家康の墓」と称される史跡があることだ。文書『堺鑑』には、家康が討たれたという記事があり、秀忠や家光が墓参りに訪れた際の奉納物も残っているという。この時の影武者は元信ではなく、大名である小笠原秀政が正史による家康の死の時期まで名乗っていたと言われている。
また、家康がこの時70代、秀政が40代とあまりに歳の差がひらきすぎているため、百姓を影武者に立てたとも言われている。家康は天ぷらを食べすぎて体調を崩し亡くなったとも言われているが、これは用済みになった影武者を毒入りの天ぷらで殺害したのではとも考えられているのだ。
作家山口敏太郎は、「冗談だが」とことわりを入れた上で、家康は3回とも殺されており、“徳川家康”がある種のプロジェクトチーム名だったのではないかと推察している。家康を神格化する目的などによって、一連に計画されたものであるとすれば大変に興味深い話である。また、乗っ取りという形の影武者説から見ると、将門や道真そして崇徳天皇のような怨霊信仰に基づいて家康を鎮めるために東照大権現として神格化したのではないかとも思えてしまう。
果たして、家康の影武者・すり替えは本当にあったのだろうか。
【参考記事・文献】
・山口敏太郎『日本史都市伝説』
・家康は桶狭間の戦い後に殺害され、別人と入れ替わっていたのか
https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/51f2fe2ddbd64534965311e59e31251e1b68cf95
・戦国武将の影武者たち 【平将門、武田信玄、徳川家康、筒井順昭】
https://kusanomido.com/study/history/japan/sengoku/60583/#i-4
・【ゆっくり解説】徳川家康は二人いた!?影武者説の謎!!
https://www.youtube.com/watch?v=eBkKlJ1_e5s
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(黒蠍けいすけ 山口敏太郎タートルカンパニー ミステリーニュースステーションATLAS編集部)
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