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江戸時代の国学者「平田篤胤」は国学・神道を学ぶように導かれていた?!

平田篤胤は、江戸時代後期に活躍した国学者・神道家である。復古神道の大成者として、荷田春満(かだのあずままろ)、賀茂真淵(かものまぶち)、本居宣長とともに国学の四大人(しうし)として位置づけられている。

出羽久保田藩(現在の秋田県)に生まれた篤胤は、20歳になって脱藩し無一文の中江戸で下男として働く傍ら、当時の最新の学問、西洋の医学、天文学など細々と学問を修めていた。25歳になって、その学問への熱心な姿が山鹿派兵学者であった平田篤穏(あつやす)の目に留まり養子となって平田を名乗ることとなり、一層学問の道へ突き進むこととなった。

学問を手広く学ぶ中で、日本の古典研究でも知られる本居宣長の国学書に感銘を受けることとなり、彼の国学への道を開くこととなった。興味深い逸話として、当時すでに個人となっていた宣長が篤胤の夢の中に現れ、そこで宣長の弟子になることを許可されたという。

篤胤はこのことを理由として、宣長の門下を名乗っていたとも言われている。宣長を尊敬していた篤胤であったが、その学問体系は互いに異なっている。篤胤は、たとえ相手が師事する者であったとはいえ意見が異なる部分に忖度することはなかった。

彼の国学的な思想は、著書『霊の真柱(たまのみはしら)』に代表されるように、霊魂やこの世と異なる世界の存在をベースとしたものであった。中でも、天狗に連れ去られたという寅吉少年の問答をおさめたことで有名な『仙境異聞』をまとめたのちは、『新鬼神論』『古今妖魅考』『勝五郎再生記聞』などといった妖怪やその他あらゆる怪異現象の研究にも尽力していくこととなった。

特に妖怪の研究については、のちの柳田国男や折口信夫などに影響を与えたという。

彼の国学は、それまでとは一線を画す独自の体系で成り立ち、またその復古神道の大成は、幕末の尊王攘夷運動の精神的根拠となって明治維新をリードするほどであった。なぜ彼がそこまで霊魂や幽冥界といった概念を追究するようになったのか。一つの逸話として、若かりし頃の彼が脱藩する際、雪深い道中を迷いながら歩く彼の耳に、辿る道を知らせるような声が聞こえてきたのだという。

平田篤胤は、学問という手段によって人々に神霊的世界の存在を伝えた一種の預言者でもあったのかもしれない。

【参考記事・文献】
・子安伸邦『平田篤胤の世界』
・平田篤胤ってどんな人?何をした人?
https://tromolo.jp/hirata-atsutane/
・平田篤胤
https://edo-g.com/men/view/140

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(にぅま 山口敏太郎タートルカンパニー ミステリーニュースステーションATLAS編集部)

画像 ウィキペディアより引用