ニコラ・テスラは、オーストリア=ハンガリー二重帝国(現在のクロアチア共和国)に生まれた発明家である。
現代の電化生活を成り立たせている交流電機の実用化に成功したことで知られ、その直感的かつ未来的な着想に基づく数々の発明から天才と称された。
テスラの天才ぶりを示す人生は幼少期にまで遡り、わずか5歳で初めて発明をしたと言われている。20代半ばには、回転磁界の原理を発見したことで、最初の実用的な交流モーターを完成させた。1884年に渡米したステラは、そこで発明家トマス・エジソンと出会い、彼の助手となって電流の研究に携わっていった。
ところが、エジソンとテスラは互いに対立を深めることとなる。エジソンは蓄電などに有利な直流電流を事業的にも推し進めているのに対して、テスラは効率性を考慮した交流電流を推し進めていたのだ。結果的に、この対立が原因でエジソンと訣別し、わずか1年ほどでステラは彼のもとを去った。
このエジソンの直流派とテスラの交流派による対立は「電流戦争」と称された。のちにナイアガラ瀑布発電に交流システムが採用されたことによって、この戦争はテスラの交流派が勝利する結果となり、エジソンはその後交流電流のネガティブキャンペーンを行なうなどの工作を行なったという。
テスラの研究は、交流電流から徐々に電磁波に向かっていく。高周波高電圧を発生させる発電機、電波を分離する同調回路技術、そして共振変圧器いわゆるテスラ・コイルなどを発明していき、また無線操作ボートの公開実験などを行なうことで、無線の実用化に挑んでいった。今日の無線の基盤技術も、こうした彼の成果によるものである。
1897年になると、彼は情報とエネルギーを無線送信するための「世界システム」の実現を目指した。財閥からの支援を受け、大幅な施設の建設も始まったものの、その途上で支援が打ち切られ施設建設は中断し、資金難によって彼は研究を挫折するに至ってしまった。彼の研究人生はここから徐々に転落していくこととなる。
晩年は満足に研究ができない傍ら、着想したアイデアを記者などに語る機会が増えたという。それらは「無限エネルギー装置」「殺人光線」「人工地震装置」といったものであり、今日に至る都市伝説などで語られるマッドサイエンティストのイメージを彼に植え付ける原因ともなった。1943年には、ニューヨークのホテルでひっそりと息を引き取ったという。
彼の発明は、あまりにも先進的だったと言われ、「宇宙人から発明を教授されていたのではないか」とさえ囁かれるほどであった。それゆえに、死後彼の研究資料がFBIによって回収されたといった、多くの都市伝説と語られるようにもなった。彼はエジソンのような事業的な考えではなく、純粋に研究へ没頭するタイプであったのだろう。
彼に有意義な研究の場が与えられていたら、現在の我々の生活、そして世界はどうなっていたのだろうか。
【参考記事・文献】
・新戸雅章『天才ニコラ・テスラのことば』
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(にぅま 山口敏太郎タートルカンパニー ミステリーニュースステーションATLAS編集部)
画像 ウィキペディアより引用