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大名に仕え驚異的な距離を移動した松尾芭蕉に囁かれる「忍者説」の謎

「古池や蛙飛びこむ水の音」「夏草や兵どもが夢の跡」などの句で知られる松尾芭蕉は、江戸時代前期の元禄に活躍した俳人である。静寂の中の自然と美や人生観を盛り込んだ俳句を多く残し、齢40を越えてから全国を巡って書かれた『おくのほそ道』は、日本古典を代表する作品として残っている。

この芭蕉には、忍者だったのではないかという説が存在している。まず、彼の出身地が忍者の国である伊賀であったことが挙げられる。もちろん、それだけで忍者と疑うのはあまりにも突拍子ないだろう。

晩年の傑作と称される『おくのほそ道』を読むと、芭蕉が日本各地を巡った際の距離と時間についてあることが判る。彼は、2,500キロメートルを5ヶ月で歩いている計算になるのだ。これは1日平均で15~16キロメートルを歩き、多い時には数十キロメートルを歩いている計算になる。

例えば、江戸深川を出発して3日後には日光東照宮に到達しているのだが、なんと160キロメートルを3日で歩いたことになる。単に健脚であったとも考えられるが、彼はこの時46歳であった。平均寿命50歳と言われる時代であったことを考えると驚くべき体力である。




各地に伝承が残る空海は、最低でも5,000の伝説が存在していると言われており、もし実際に本人が行き来したのだと仮定すると時速120キロメートルの移動であったことになってしまうという。空海の場合は、明らかに生前や没後の時期とされる伝承もあり、特別な偉人としてあやかったものとして残るものが多いと推測されるが、芭蕉の場合はどうも事情が異なる。

もう一つ、彼の旅の資金源は果たしてどこから来ていたのかという謎もある。彼は1662(寛文2)年、服部平蔵の親類にあたる藤堂良忠に仕えていたと言われている。このことから、彼の旅は俳句の旅と称した偵察旅行であったのではないかと考えられているのだ。大名や幕府からの依頼を受けており、彼らが出資者だった可能性があるのだ。

さらに、彼の行動にも奇妙な点が見られる。『おくのほそ道』では、松島で一句も読まずに一泊で通過している反面、伊達家の軍事拠点である瑞巌寺や物資を取り込む石巻港などは念入りに観察している。こうした行動を見ると、彼がスパイや調査員という立場であった可能性も大いに浮上してくる。

武田信玄は、くノ一集団とも言われる「歩き巫女」を各地に派遣し、諜報部隊として活用していたという記録がある。スパイや調査員を大名や幕府が派遣した例は、珍しいことではない。芭蕉の死後に幕府は、芭蕉と共に「おくのほそ道」へ同行した弟子の河合曽良に第四回諸国巡見の随員として検分依頼を出しているという。

松尾芭蕉が忍者・諜報員であったとされる証拠は、このように多く存在している。

【参考記事・文献】
・山口敏太郎『日本史の都市伝説』
・松尾芭蕉は忍者だった?その生涯や代表作『奥の細道』5つのミステリーを徹底解剖
https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/9987/#toc-14

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(にぅま 山口敏太郎タートルカンパニー ミステリーニュースステーションATLAS編集部)

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