歴史を紐解いてみると、残虐な刑罰や拷問は多々記録されていた。
悪名高き拷問具として代表的なものは「鉄の処女」だろう。ハンガリーのエリザベート・バートリが作らせたとされており、一見鉄で出来た巨大なマリア像のように見えるのだが、内部はがらんどうで鋭利な刺が無数に生えており、中に閉じ込めると犠牲者をずたずたに引き裂いてしまうというものだった。
彼女はこの像の中に少女らを詰め込んで、出てきた生き血を浴びて若さを保とうとしていたという。後に異端審問にも使われるようになり、マリアを模した鉄の処女の外見を見せることで自白を促し、聖母マリアの慈悲による死が与えられると示したものだとされている。
この鉄の処女に関する記録は19世紀頃から盛んになっていき、1835年にはイギリスの作曲家ピアサルがスペインでは「鉄の処女」が異端の罪を認めない囚人に対する最後の手段として使われたという趣旨の記述を残し、19世紀初頭にナポレオンの部下だったラサール将軍もスペインのトレドの異端審問所であった建物の中で鉄の処女を目撃し、克明な記述を残している。
しかし、この「鉄の処女」は資料や現物が残っているものの、実は実際に使用された例はなかったのではないか、とする説が存在している。
19世紀になってから怪奇小説が人気になり、「鉄の処女」の逸話が人々の間に広まっていくにつれ、実物を見たいと思う人も出てくるようになった。そこで見せ物として鉄の処女のレプリカが作られ、「悪名高き鉄の処女の実物である」と広められることによって、更に人々の間に定着していったのではないかと考えられるのだという。
また、中世には性に奔放な女性を晒し者にする「恥辱の樽」や度を越した酒飲みに懲罰を与える「酔っぱらいのマント」という「外に顔と手足が出る状態で樽に入れる」という刑罰があったため、そこからヒントを得て鉄の処女に改造したのではないかとする説も存在している。
なお、実際に欧州各地に現存している「鉄の処女」を研究したヴォルフガング・シルト教授によれば、実際に使用された痕跡のあるものは一つとしてなく、全てが偽物だと断定されており、中には改造した来歴が解るものも存在しているという。
(加藤史規 ミステリーニュースステーションATLAS編集部)
画像©Die Nürnberger Jungfrau im Kriminalmuseum Rothenburg ob der Tauber.