明治に入り、”妖怪は迷信である”と学者・井上円了が言い放ってから、妖怪とは通常は存在しないものとされてきた。果たして妖怪は現代において死滅してしまったのであろうか。
現在、筆者のところには、この21世紀においても、”現実に妖怪は存在する”との情報が多く寄せられている。特に恐れられているのが、七人ミサキ系の妖怪である。この妖怪は、地方によって「七人ミサキ」「七人童子」「七人同行」など呼ばれ、恐れられてきた。
その正体は7人の怨霊の集団だという。つまり、非業の死を遂げた7人の怨霊が妖怪となり、生者をとり殺すのだ。奴らは、7人の命を奪わないと救われないとされている。そして、新たに命を奪われた7人が新しい「7人ミサキ」となって、生者を黄泉の国にひきづり込むのだという。
その七人ミサキ系の妖怪の中で、現在でも激しく祟っていると噂されているのが「7人坊主」である。この恐ろしい奴らの正体に迫ってみよう。
七人坊主の祟り(八丈島)
昔、上方(大阪)から出航した船が、激しい嵐に遭い難破してしまった。たまたま乗り合わせた七人の坊主は漂流し、命からがら八丈島の藍ヶ江浜に漂着した。そして、食料を求め坊主達は、島の内部を徘徊し、中之郷村にたどり着いた。しかし、住民の坊主たちへの態度は冷酷であった。坊主たちに食料を与えないどころか、山中に追いやってしまったのだ。
それには理由があった。当時、長引く飢饉で自分らの食べ物の無かった村民は、坊主たちに食料を与えたくとも与えられなかったのだ。食料事情が豊富でない島では仕方の無い選択であったのだ。また違う説によると、七人の坊主のうち何人かが、天然痘に感染しており、村民の命を守る為に、やむえず山に追い返したというものもある。更に別の異説には、坊主たちが呪術によって、離れた場所から木の実を落としたりする姿を村民が目撃し、七人の坊主を呪術師として怖れたためであるとも言われた。
とにかく、村民は7人の坊主が村に入れないように、バリケードを施し、坊主を山中に封じ込めた。その為、7人の坊主は時をたたずして、全員絶命してしまったという。その7人の坊主の怨霊が 妖怪「七人坊主」となり長い間、祟る事となったと伝説として伝えられている
。
なお幕末から明治にかけての八丈島復興に功績のあった文化人・近藤富蔵にも7人の因縁はつきまとう。「八丈実記」69巻の著者であり、徳川譜代の旗本で、著名な北辺の探検家でもあった近藤重蔵守重の息子であり、武士としてもなかなか心根のしっかりした人物であったという。
当時、富蔵は父親に勘当され、絶縁の間柄ではあったが、その父が別荘地の問題で塚越半之助という元博徒ともめているのを聞き、いても立ってもいられなくなった。そして、これは良い親孝行の機会であると塚越一家に調停にいった。しかし、これがトラブルの原因となる。話の分からぬ塚越と口論となり、刃物を持っての刃傷沙汰となった。
だが、腕に覚えのあった富蔵は塚越一家7人を斬り殺してしまった。売られた喧嘩とは言え、7人も殺したと言うのはもはや申し開きがつかない。富蔵は八丈島に遠島という処罰を受けることになる。在島年数は56年で、明治13年2月26日に赦免になっているが、島の発展に寄与し父の菩提を供養する真摯な人生であった。このように島の偉人にも”7人殺し”の因縁はつきまとうのだ。
(後編に続く)
(ミステリーニュースステーション・アトラス編集部)