「泣かぬなら 殺してしまえ ほととぎす」のエピソードで知られるとおり、苛烈な性格であったとされている織田信長。
彼の性格を裏受づけるようなエピソードに、髑髏杯(どくろはい)の話がある。
元亀元年(1570)、姉川の戦いで浅井・朝倉連合軍を撃破したのちも織田信長は周囲を敵に囲まれて苦慮していた。一乗谷城、小谷城の戦いで彼らを倒した翌年の1574年、織田家では酒宴が行われた。
このときに信長が珍しい杯として取り出したものが、なんと朝倉義景、浅井久政・長政父子の頭蓋骨で作られた3つの杯だったのだ。驚く家臣らに信長はこれで酒を飲むように薦めた。
明智光秀は飲むことを拒んだため信長の怒りをかってしまう。そして、これがもとになって光秀は信長の誅殺を決意した…とする話もある。
さて、信長の性格を端的に示しているともいえる髑髏杯のエピソードだが、信長にまつわる信憑性の高い逸話が記されている太田牛一の『信長公記』にはもう少し違った記述が成されている。
それによれば3人の髑髏は杯に加工されたものではなく、金箔を張り付けたものを膳の上に置き、それを眺めながら酒を飲んだという。このとき信長のそばに控えていたのは有力武将らではなく、彼の親衛隊である馬廻り衆のみ。ごく身内で行われたことと、髑髏を加工したというショッキングな出来事が重なって、次第に話が拡大解釈されるようになったのではないか、と見られている。
ちなみに、髑髏を酒の肴にする話は中国の逸話にも散見されるため、信長ならずとも真似した武将は多いのではないかとされている。
(加藤史規 ミステリーニュースステーションATLAS編集部)
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