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【知られざる史実】佐倉宗吾と将門の因縁関係

 千葉県佐倉市酒々井町・将門山には「口の宮神社」「桔梗塚」という史跡が存在する。口伝によると、将門と愛妾・桔梗前を奉ったという。だが奇妙な事に、この神社の分社が何故か、新潟県に確認されている。義民・涌井藤四郎を奉る「口之神社」がその分社であるという。

 明和五年(1768年)現在の新潟県にあたる長岡藩で「明和騒動」という農民蜂起事件が発生する。困窮した町民を救う為、代表の涌井は藩に対策を願い出るが、牢屋に監禁されてしまう。これを聞いた農民達が決起し涌井を救出、その後2ケ月間に渡り庶民による自治統治国が成立した。後に長岡藩による攻撃で国は瓦解するが、日本の民主主義を考える興味深い魁である。この農民のリーダー・涌井を奉ったのが、「口之神社」である。

 何故又、義民の涌井を奉る為に、武士の将門の神社を造ったのか?それは「口の宮神社」は、将門が表向きの神であり、本当に封じ込めているのは「義民・佐倉宗吾」なのである。

 佐倉宗吾こと木内惣五郎は、悪政に苦しむ農民達を見かねて、江戸の上野東叡山で将軍・徳川家綱に直訴したとされている。おかげで民は助かり、税は軽くなったのだが、承応二年(1653年)直訴の罪により、佐倉宗吾は処刑されてしまう。その日以降、堀田家では変死・怪異が続いた。承応三年(1654年)堀田正信は、将門山に「新将門宮」と「石の鳥居」を寄進する。表向きは将門公の慰霊であったが、実際は宗吾の怨霊を恐れて、密かに御霊として奉ったのではないかと推測されている。また同地には「口の明神」という宗吾の慰霊の祠も建立された。

 しかし、宗吾の怨霊は祟り続け、万治三年(1660年)堀田公自身も乱心し、佐倉堀田家は改易され信州に流されてしまった。その後も、「佐倉風土記」「総葉実録」などでは、「口の明神」が将門の史跡であるかのように擬装された。その背後には名門堀田家が、一農民の宗吾の怨霊に屈したという事実を隠蔽したいという武士の建前が見え隠れする。




 延享三年(1746)堀田正亮が約100年ぶりに佐倉に入封してくる。するとまるで宗吾の霊が乗り移ったかのような事件が起こる。寛延三年(1750)佐倉藩成田筋の農民たちが強訴を行ったのである。やはり、宗吾の怨霊は生きていた。宝暦二年(1752)惣五郎百回忌にあたり、領主の堀田正亮は朽ち果てていた「口の明神」を再建し、惣五郎に「涼風道閑居士」という戒名と「宗吾」という尊称を与え以後、春秋の法要を書かさず行い、105回忌、200忌の法会、宗吾の子孫への5石の提供も堀田家により行われている。

 農民と武士の百年戦争は、宗吾の怨霊の勝ちとなった。虚構や詭弁で他人を陥れても、必ずいつの日か真実は民衆の指示が明らかにしてくれる。

(山口敏太郎 ミステリーニュースステーションATLAS編集部)

画像は『新釈 民権操志(佐倉宗吾傳) 』表紙より