平安時代、人々の生活を脅かす天災や疫病などは恨みを残して死んだ人の「怨霊」が起こすものとみなし、この魂を鎮めて「御霊」とすることで平穏と繁栄を願う「御霊信仰」が盛んになった。
当時は貴族たちの権力争いが盛んであり、権謀術数で密かに政敵を追い落とすことなど日常茶飯事であった。
そのため、貴族たちは自身の手を汚さずに相手を消す手段として呪詛を用いることを考えたのである。もちろん、自分と同じ事は相手も考えているだろうということで、呪詛から身を守る方法も考えなくてはならなかった。
そこで呪詛や占術のスペシャリストである陰陽師の助言を仰ぐようになったのである。なお、陰陽師はもともと宮中で祭祀等を行う文官の一種である。
晴明が1005年に亡くなった時、一条天皇は彼を稲荷神の生まれ変わりであるとして、その屋敷跡に晴明自身を祀る社を建立した。これが現在でも京都市上京区にある晴明神社である。
あまりに強大かつ特異な力を持っていたため神格化されたのだが、この神社がひとつの封印ではないかと見る説もある。なぜならこの神社及びその近辺は晴明が父を生き返らせた所でもあり、同時代の武士渡辺綱が鬼の変化した女性と出会った場所でもあった。
もしかすると、この場所は鬼と縁の深い場所だったのかもしれない。
だからこそ、霊力の強い人物が監視する必要があり、死して後も封印のために社でもってこの地に留めておく必要があったのかもしれない。
(山口敏太郎 ミステリーニュースステーションATLAS編集部)
画像 京都さんぽ photoAC