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あの伝説には裏があった!?源頼政の鵺(ぬえ)退治

 日本史で有名な源平合戦だが、平治の乱のあと、源氏平家に使える源頼政がいることに違和感を感じた人もいるかもしれない。この頼政、当初は源氏側に荷担していたものの、途中で裏切り平家方についた源氏の武将なのである。平家全盛の世に巧みに清盛に取り入るなど、なかなか強かな男である。

 この頼政の首塚が千葉県にある。
 昭和初期に出された藤沢衛彦の「日本の伝説・下総の巻」によると、頼政が宇治平等院で自害した後、配下によって首は持ち去られた。その者は埋めるべき場所を探して諸国を放浪し、千葉県印旛にたどり着くのだが、俄に首が重くなった。「この場所こそ埋めるべき場所よ」とその者は、骸骨を埋葬したという。今もその塚は結縁寺にある。




 ちなみに現在の印西市である船尾には「名馬塚」という地名がかつてあったそうである。”名馬塚”つまり、この場所に頼政の愛馬を奉った塚も存在していたらしい。勿論、これは歴史的事実ではなく、口承であり伝説である。
 だが伝説には人々の想いや、謎かけ、比喩が含まれている。何故そんな伝説ができたのか、何故そんなふうに事実を置き換える必要があったのかを読みとるのが民俗学であり、民話考なのだ。

 では、頼政の首が千葉県にあるとされたのはどういう背景があったのであろうか。しばし、考えてみたい。源頼政というと歴史上の人物にも関わらず、伝説や逸話の多い事で知られている。
 源頼政の伝説というと「平家物語」に見られる鵺退治である。

 近衛天皇の御世の事、帝が毎夜もののけに怯えるようになった。そこで源氏で一番の武者と言われた源頼政が妖怪退治に立ち上がった。ちなみに頼政は、酒呑童子や土蜘蛛を退治した源頼光の直系の子孫にあたり、適任と言えばこれ以上ない人材である。
 そしてその夜、頼政が見張っていると、丑寅の方角から怪しい黒雲が湧き起こり、その雲から頭が猿、胴が狸、手足が虎、尾が蛇という「鵺」と呼ばれる怪物が現れた。すぐさま、頼政は弓で鵺を射ち落とし、家来・猪早太が太刀で止めさした。




これが有名な頼政の鵺退治伝説であるが、この伝説からいかに頼政が天皇に忠実で、武芸に秀でていたかが推測されるが、同時に面白い推理も成り立つ。いささか古い言葉だが、鵺は時として「わけのわからない人物」の比喩でも使用される。(ヌエのような奴)つまり、(よくわからぬ奴)という表現である。

 頼政は源氏で唯一生き残り清盛に使えた武将である。つまり、庶民から見れば頼政が一番わからない人物、つまり頼政自身が「ヌエ」ではなかったのであろうか。彼は自分の分身を射殺したのだ。

(山口敏太郎 ミステリーニュースステーション・アトラス編集部)