千葉に住む人でなくとも、義民・佐倉宗吾について聞いた事があるだろう。重税で苦しむ農民たちを見捨てられず、立ち上がった義民・ヒーローである。
まず佐倉宗吾こと木内惣五郎(なお宗吾とは後に贈られた名前)は、佐倉藩領の名主総代として領主・堀田上野介正信の悪政に苦しむ農民達を救ったのである。名君の誉れ高かった堀田正盛と違って、堀田正信が領主に就任すると、再度検地が行われ、重税が課せられた。しかも、その税を納められない者には「水牢」や「石子詰め」という過酷な拷問が待っている。忽ち佐倉領内の農民達は窮地に陥った。
宗吾は久世大和守に駕籠訴(駕籠で移動する高貴な人物に直訴すること)するもののその願い叶わず、宿預かりとなった。しかし、宗吾はこれで諦めない。こっそり宿を抜け出し、子供達と涙の別れを告げると印旛沼を越え、江戸に向かった。当時、渡し船は禁止されていたが、老船頭が宗吾の気持ちにうたれ、命がけで印旛沼を越えたのだ。
江戸に出た宗吾は、上野東叡山参拝中の将軍・徳川家綱との接触を試みた。三枚橋で直訴したところ、見事聞き届けられ、佐倉藩の重税が軽減された。ここまではよかったのだが、この後宗吾一家の悲劇が始まる。税は軽くしたのだが、すっかり、領主としての面目が潰された堀田公は激怒し、宗吾とその妻・お欽、子供4人をとらえる。そして、宗吾の目の前で子供をなぶり殺しにする。(史実では妻子は無事との説が強い)更に妻・お欽を惨殺すると最後は宗吾を獄門で殺してしまった。宗吾は絶命しながら、堀田公を呪ったと伝えられる。その日以降、堀田家家中では怪異が続いた。張りつけ獄門で殺害された宗吾が、張りつけられたそのままの姿で何度も姿を現したのだ。また堀田公自身も精神に破綻をきたし、老中松平伊豆守を弾劾し、無断で領地・佐倉に帰国した咎で、佐倉堀田家は改易され信州に流されてしまった。宗吾が処刑されてから7年目の万治3年(1660年)の事である。この一連の事件を見て、人々は「佐倉宗吾の怨霊」によって堀田家は滅びたのだと噂した。
これが有名な佐倉宗吾の伝説である。芝居や読み物で題材に採用されており、大幅に史実とは異なると言われているが、驚くべき事に話がオーバーになるどころか、佐倉宗吾自身がいなかったという説や、それほど宗吾は義民ではなかったという説、また宗吾は千葉家の旧臣でお家再興を将軍に直訴したという説があるのだ。
果たして、佐倉宗吾こと木内惣五郎は実在したのであろうか。いや、そもそも苦しむ人々を救う義民であったのであろうか。少なくとも言えることは、庶民を苦しめた領主と、その圧政と闘った人がいたのは事実であろう。ひょっとすると人々を救う為、複数の宗吾(義民ヒーロー)がモデルとなり、犠牲となっていったのかもしれない。哀しいことだが、人々が現在保有する平和は、長い歴史の上での災害や、戦争・闘争・政治で犠牲になった人々の屍の上に成り立っている。
延享三年(1746年)宗吾の処刑から約百年後、再び堀田家が佐倉の領主に戻ってくる。すると、四年後まるで宗吾の怨霊が乗り移ったかのように農民の強訴が領内で起きる。
そして、更に二年後の宝暦二年(1752年)惣五郎の百回忌にあたり、領主・堀田正亮は先祖の非をわびるかのように「口の明神」という宗吾を奉った神社を再建、惣五郎に涼風道閑と戒名と宗吾という尊称を与えた。
ここに百年に渡る宗吾と堀田家の因縁は決着するのである。
(山口敏太郎 ミステリーニュースステーション・アトラス編集部)