Sさんの家は、渓流に面した絶壁の縁に建っている。地元でも有名な旧家だ。
古い日本家屋の周囲には緑豊かな渓谷が広がり、鳥の声も心地よい。そんな素晴らしい環境で、Sさんは旧家の跡取り娘として生を受けた。自宅の敷地には、大きな池や庭が広がり、子供が充分に遊べるスペースがある。
だが、Sさんの行動にはある制限があった。厳しい家訓があったのだ。
”決して絶壁を見下ろしてはいけない”
これは祖母からきつく言われた。
「最初は、何故か理由がわからなかったんですよ」
彼女は遠い目で言った。単に危ないのではない、何かこう奥歯にものがはさまった様な言い方であった。
「理由なんかないよ、とにかく見るな」
祖母は目を吊り上げて言った。あの時の祖母の表情は忘れられないという。
勿論、絶壁側には落下しないように、高い塀が設けられている。黒く厚い木でできた塀で、ニメートルはゆうにある塀であった。
その塀の向こうは絶壁となり、遙か数十m下に山から流れてくる小さな渓流がある。この塀から乗りだし、下を覗いていてはいけないのだ。
(なぜだろう…)Sさんは小さい頃からその疑問をぬぐいきれなかった。人は禁じられると気になるもの
である。
もう何百年もSさん一族は川べりの土地に屋敷を構えている。代々様々な人が生きてきた。だが、誰も絶壁を見下ろそうとしないのだ。これは、おかしい。
(たっ多分、何かある…)旧家のかび臭い居間で、Sさんは塀の向こうに思いをはせた。
ある夜、Sさんは奇妙な音を耳にした。
「ずずっーずずっー」
(あれっ、なに? なんなの?)何か重い荷物が這いずり廻るような音がする。
「ずずっー ずずっー」
肉を削るように、とてつもなく重いモノが引きづられている。よく聞くと、その音は庭からするようだ。
(あの、塀の向こうなのか)パジャマ姿で庭に出た彼女は、音のする方に向かって歩いた。
―――多分、ここだ。彼女は歩みを止めた。間違いない。音がするのは塀の向こうである。見るか、いや、やめるべきか。葛藤したSさんだが、ついに決断した。
庭にある椅子を塀際にもっていき、その上に乗ると…。片手に持っていた携帯電話を塀の向こうに差し出した。
「これで、正体を撮ってやるわ」
彼女は、渓流の音のする下方に向けてシャッター押した。
「何が、写っているのかなぁ」
Sさんは、携帯の画像を確認した。
すると、写真には信じれないものが写っていた。
「なに、これ…」
それは…老婆であった。絶壁をはい上がってくる老婆であった。ずりずりと、はい上がってくる姿が映りこんでいる。
彼女の目玉は何故か、溶け細く長く下に垂れている。目玉の溶けた婆が絶壁を這っていたのだ。
(山口敏太郎 ミステリーニュースステーション・アトラス編集部)