西郷頼母(1830年5月16日 – 1903年4月28日)は、若松城代 手口前の藩邸に生まれている。
幼名は龍太郎といい、通称は頼母であり、諱は近悳(ちかのり)であった。非常に小柄な身体であったが、身体能力に優れており、「豆彦」や「三尺達磨」と異名をとった。その格闘センスを見込まれたのであろうか、幼き頃武田惣右衛門から、「御式内」という武芸と陰陽道を伝授された。
この「御式内」とは、新羅三郎源義光を祖とする「大東流」をベースに構築されたものであり、家老や高位の武士に伝授された殿中における護身術であった。
元々「大東流」は、新羅三郎が近江の大東の館に住み、大東三郎と呼ばれたことからその名がついたとされるが、新羅三郎ルーツ説は一般的に怪しいとされている。
戦国時代は甲斐の武田家で継承された武芸であり、武田家の滅亡に伴い会津に伝承者たちが移住し、会津松平家へと伝えられ門外不出の武芸とされたという。
(当然、この歴史も懐疑的な意見が多い。事実幕末の会津藩の資料には武田姓を名乗る藩士がいるものの、いずれも下級藩士であり上級の藩士に伝えた御式内の伝承者とは判断しづらい。尤も、武田家の生き残りは姓を変えたという解釈もある。だが、御式内の存在を明確に立証する客観的な証拠は発見されていない)
西郷頼母は、この「御式内」の達人であったとされているが、その証拠はない。武田惣角の直弟子であった佐川幸義は、西郷頼母の写真を見て、大東流の使った身体ではないと推定している。
(異説だが、「御式内」とは殿中における作法や所作を伝えるものであり、武術ではないという解釈もある。)
この西郷頼母が「御式内」を武田惣角に伝え「大東流合気柔術」へと発展していく。さらに養子の西郷四郎は、「講道館柔道」の確立に関与することになる。
本人の実力は判然としないのだが、明治の格闘界に大きな影響を与えた巨人であったのは事実である。
(山口敏太郎 ミステリーニュースステーション・アトラス編集部)