日本の初代総理大臣である伊藤博文は、大の女好きであることでも有名であった。女癖の悪さは、当時のマスコミでもたびたび取り上げられており、その異常とも言えるほどの女遊びエピソードは数知れない。
彼は、2度の結婚を経験している。
はじめは、松下村塾おける松門四天王の一人・入江九一(いりえくいち)の妹であるすみ子であった。しかし、結婚しても芸者通いは続き、果ては芸者であった梅子との間に子供もできてしまい、これによってすみ子と離婚、梅子と再婚することとなった。
とは言え、梅子との結婚後も芸者通いが止むことはなかった。
どのような状況であろうとその態度は全く変わらず、イギリス留学時代には女遊びをしすぎて金を使い果たし強制帰国させられそうになったり、高熱で魘されているにもかかわらず芸者と共に過ごし、果ては日中戦争のさなかに全権大使・李鴻章が襲撃された時にも芸者遊びをしていた。
さらには、美貌を武器に暗躍し、幕末の大坂でその名を轟かせていた女盗賊・雷お新に美人局(つつもたせ)で脅され、金をとられる羽目になったというエピソードもある。
そんな当の本人はというと、「金も家もいらない、女遊びができればいい」などと豪語していたようである。こんな状態だったため、「掃いて捨てるほど女がいる」という意味から「箒」(ほうき)というあだ名で呼ばれていたという。
そんな彼の大スキャンダルとして知られているのが、岩倉使節団の団長・岩倉具視の娘・戸田極子に関係を迫ったというものである。
岩倉具視の三女であった彼女は、「鹿鳴館の華」と称されるほどに顔立ちが良い美女として知られていた。当時の彼女は、戸田氏共(とだうじたか)伯爵に嫁いでいた人妻であったのが、伊藤博文にとってはそんなことはお構いなしとでも言うがごとく、彼女と関係を結ぼうとした。
ある時のパーティでのこと、伊藤博文は夫とともに参加していた戸田極子を一室に連れ込み、そこで強引に関係を迫った。驚いた彼女は、その部屋の窓から飛び降り、裸足のまま人力車に乗って逃れたという(別の説では、庭に連れ出して茂みに押し倒し情痴を迫ったというものもある)。
この大スキャンダルによる影響は凄まじく、元々金の無駄遣い・猿真似といった非難を浴びて評判が良くなかった鹿鳴館のイメージはより悪化、醜聞の中心となって徐々に廃れていくことになった。
なお、その後に戸田氏共は異例の大出世を果たすことになるが、これは伊藤博文が権力を使って沈静化を図ったのではないかとも噂された。また一部では、「暴行に及んだのではないか」との噂までも広まるに至り、これが退陣の原因にもなったのではないかと言われている。
だが、明治天皇からも苦言を呈されたと言われる、彼のこの悪癖は生涯おさまることはなかった。
【参考記事・文献】
・https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/67708?page=5
・https://kusanomido.com/study/history/japan/bakumatu/70265/
・https://histonary.com/itouhirobumi-onnasuki/
・https://tensuisen.com/archives/2273#toc15
・https://bushoojapan.com/jphistory/kingendai/2024/03/07/162515
・https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/124611/
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【文 黒蠍けいすけ】
画像 ウィキペディアより引用