妖怪・幽霊

切腹した七人の家臣「七人御崎」怨霊が出現…土佐の七人ミサキ【その参】

土佐・長宗我部家の跡目争いが怨霊を産んだ「土佐の七人ミサキ」【その弐】より続く

天正16年に起きた長宗我部家の嫡子問題から、家臣の吉良左京進・比江山掃部親興の両名は切腹を命じられた。この二人の切腹に際し、多くの者が後を追った。

吉良左京進の切腹の時は、宗安寺真西野、永吉飛騨守、勝賀野次郎兵衛、吉良彦太夫、城内太守坊、日和田興左衛門、小高甚左衛門の七人が殉死した。

人々はこの七人を「七人御崎」と称して、怖れ敬った。また、吉良左京進の遺骸は吾川郡中村郷木塚に木塚大明神として、七人御崎と共に奉られた。




なお、左京進の自宅のあった小高村でも「森の下明神」として奉られた。昭和に入り、師範学校ができ、祠は小高坂の氏神「若一王子宮」の境内に移転したという。比江山掃部親興の切腹の折りには、妻子に罪はないとして、近臣が須江村正福寺に匿ったところ、これを密告した者があり、比江山掃部親興の妻子と従者6名が追っ手により殺害された。

この仕打ちに正福寺の住職も怒り、抗議の自殺を行った。これをくわえ「須江の七人御崎」と呼び、この七人の墓に踏み入る者には祟りがあると言われるようになった。

こうしてふたつの七人御崎が生まれたわけだが、これ以後、「七人御崎」の祟りと思われる様々な怪異が噂された。

左京進の屋敷跡、木塚の墳墓周辺には、度々怪火が出没した。特に小高坂が酷く、首の無い武士が白馬に乗って歩き回り、隻眼の醜女が太鼓を打ちながら踊り、大入道が鉄棒を引いて走りまわるといった怪現象が頻発し、これらの魔物に遭遇した者は死んでしまったとも言われている。

また仁淀川ではこんな事もあった。

ある夜の事、川の渡し守(川の反対岸に荷物や人を運ぶ船頭)が自分のことを呼ぶ声を聞く。渡し守が小屋から外に出てみると、姿は見えないが、大勢が船に乗り込む音がする。

「がしゃがしゃがしゃ」

鎧がふれあう音である。渡し守は恐怖を感じるが、船を出さねば危険な目に遭うと思い、恐る恐る船を出した。すると見えない客はこう言った。




「ここにおはすは、吉良左京進様である。今から大小坂に打って出て、敵に一泡ふかせんと眷属どもを連れての出陣ぞ、汝にはなんのお咎めもない故、おそるる事はない」

そういうと甲冑がふれあう音を発しながら、大勢の見えない武士達は船をおりていった。渡し守は恐怖に震えつつも見えない一団を見送った。

怨霊となった吉良左京進が久武内蔵介の元に到達したのだろうか、久武内蔵介の周辺で次々と怪異が起きるようになった。

(山口敏太郎 ミステリーニュースステーションATLAS編集部)

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