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新撰組千葉始末記~映画を見た永倉新八

 近藤を失った新撰組は、土方歳三の指揮のもと市川に駐留中の大鳥圭介らを幹部とする幕府軍残党に合流する。この勢力は旧幕府砲兵隊を中心に、回天隊、純義隊に加え、鳥羽伏見で破れた会津、桑名の脱走兵新撰組が参加したものだから、二千人近い兵力を有していた。

 甲陽鎮撫隊の敗戦後、新撰組を脱退した永倉新八、原田左之助が結成した靖共隊もこの列に加わる。計らずも、千葉県の市川で新撰組と永倉・原田は、友軍として再会する事になる(この時、個人的接触があったかは不明である)なお斉藤一が千葉に来たかどうか不明である。会津への先発隊を率いていた説もあり、新資料の発見に期待したい。




 なお新撰組の主な隊士で、千葉の土を踏んだ隊士をあげてみると、土方歳三、永倉新八、原田左之助、島田魁あたりであろうか。彼らはその後どうなったのであろうか。まず土方は函館で戦死する。銃弾に倒れるのだが、その銃弾は徹底抗戦を主張する土方を始末したい幕府側から放たれたという説もある。

 また島田は、池田屋事件から函館戦争まで生き残り、京都に帰り妻子と暮らし、道場経営後、西本願寺の守衛を勤め72歳で天寿を全うする。島田は死ぬまで、土方の戒名を書いた布を肌身離さず持ち続けたという。

 斉藤は会津戦争後、会津藩士となり藤田五郎という名前で警視庁の警部補を務めた。後に西南戦争にも参加している。当時、西郷隆盛と共に多くの巡査が鹿児島に引き上げた為、旧幕府側の人間が警察に採用されたのだ。ちなみに西南戦争で薩摩に派遣された警察官の部隊「新撰旅団」と呼ばれた。薩摩の桐野利秋は「またあの新撰組がやってくるのか」と仰天したという。




 原田は、上野彰義隊に参戦し、その時の傷がもとで死亡した事になっているが、一部に生存説がある。新撰組研究家豊田重雄氏によると、原田は上野戦争後、新門辰五郎にかくまわれ、釜山に渡航、その後大陸で馬賊の頭目として暮らし、明治40年70歳近くなって帰国、弟・原田半次らと再会し再び大陸に帰っていったという。いささか眉唾な説だが、原田の自由奔放な性格を考えると、まったくあり得ない話でもない。

 最後に永倉新八だが、近藤と袂を分かった後も、新撰組への想いはいささかも衰えてはいない。会津戦争後、松前藩に帰参し、後年板橋に近藤の供養塔を建立している。大正11年79歳まで生きた永倉は、晩年映画を愛し「近藤や土方が活動写真を見たらどんな顔をするだろう」よくそう言ったという。幕末を生きた男達の人生は映画より不思議で、映画よりドラマチックであった。

(山口敏太郎 ミステリーニュースステーション・アトラス編集部)

※画像は『新撰組顛末記』表紙より