栃木県那須町の那須湯本温泉には殺生石と呼ばれる溶岩が存在している。この殺生石は、鳥羽上皇の愛した女性が姿を変えたものとする伝説がある石で、付近には有毒なガスが立ちこめているためこの名が付けられている。
かつて山口も学生時代にこの殺生石をたずねた事があったのだが、2004年に久々に同地に足を運んだ。
このときは、殺生石がメインではなく、周辺にある数珠割り石、源三窟などマイナーな史跡の調査が目的であった。
だが、個人的に那須温泉付近に行くのはどうにも気が進まない。勿論、当地にはかつて殺生石が噴出したとされる毒ガスはないものの、微妙に漂う地中からの臭気が喘息持ちの筆者には不快に感じられるからである。
まずは気を取り直して那須温泉に一泊、旅の疲れを温泉の成分で癒してみる。温泉に入っている間は、あの硫黄臭さも気にならないのが人間の矛盾である。
翌日から宿付近の史跡「源三窟」を取材したのだが、この史跡には不思議な伝説と、現代の怪異談が残されていた。
まず同所に纏わる伝説だが、今から800年前、源平別れての大乱である平治の乱で、源氏一門と離れ、一人平清盛に従った人物に源頼政がいた。この頼政は、酒呑童子や土蜘蛛退治で有名な源頼光の子孫であり、本人も妖怪「鵺」を二度撃退したという逸話を持つ、豪の者であった。
この頼政は、平清盛により老年まで引き立ててもらい大層感謝していたのだが、息子の所有した名馬を剥奪された上、馬に息子の名前をつけられるという屈辱に激怒し、ついに「打倒!平氏」に立ち上がった。
1180年(治承4年)源頼政は各地の源氏に文をおくり、平清盛に反旗を翻すが、応援が間に合わず、宇治川の合戦にて敗れ、頼政は自害する。
この時、追撃してくる平家から逃げた頼政の孫である平有綱は、那須に潜伏した。この洞窟がその隠れ家であったという。
ちなみに、「源三窟」の名の由来だが、源頼政が三位の位まで出世した事から命名された名前であるらしい。
だが世の中はなかなかうまくいかない、洞窟内から流れ出た米のとぎ汁が流れを白く染め、ついには追っ手により討ち取られてしまったのだ。
現在、洞窟の内部では、武者人形を使い有綱の潜伏生活ぶりを再現しているが、逆にこの人形により、無気味なムードが増し、昼間でも「ある種の気配」を感じる。
この話が単なる伝説ではない証拠として、洞窟内部で源平合戦当時の甲冑が発見されたという事実がある。この甲冑は、今も源三窟の横の資料館に展示されているが、この甲冑に纏わる怪現象があった。
この話は、押坂忍氏のTV番組でも取り上げられ、新倉イワオ氏などが鑑定した事もある。
尚、このTV出演には後日談がある。アナウンサーの押坂忍氏がプライベートで源三窟を訪問した時に、洞窟内部で写真を撮影した事があった。
すると、奇怪な写真が撮影された。なんと馬に乗った武者の姿が映ったのだ。
数ヶ月後、押坂氏本人が、再び源三窟を訪問し、写真を洞主に見せた。
「これは凄い、この写真いただけませんか?」と驚いた洞主が記念館展示の目玉にもらおうとしたが、「こういう不思議な写真は、供養したほうがよい」と言って押坂氏が、持ち帰ったという。
昭和の時代にも源平時代の怨念が残っていたとは不思議である。きっと孤独な武士の霊は今も彷徨っているのだ。
※写真はウィキペディア「宇治川の戦い」より
(山口敏太郎 ミステリーニュースステーション・アトラス編集部)