古都鎌倉の地中に、他に類を見ない宗教伽藍が存在する。それが定泉寺の境内にある田谷山瑜伽洞こと通称「田谷の洞窟」だ。
鶴ヶ丘二十五坊の修禅道場でもあったこの洞窟は開創が鎌倉時代初期とされ、江戸時代まで拡張が加えられた結果現在では上下三階層、総延長1キロを誇る長大なものとなっている。
この洞窟の始まりが何だったのかは未だによく解っておらず、恐らく古墳や古代の横穴式住居跡だったのではないかと考えられている。
鎌倉時代初期の頃は当時の侍所別当(長官)であった和田義盛の三男、後に武勇が長く語り継がれることとなる朝比奈三郎義秀の館が建っていた。信心深かった彼は館の裏山にあった清水のわき出る洞窟の奥に弁財天を勧請し、毎日拝んでいたという。なお、この弁財天は洞窟入り口付近に移動している。
後に和田義盛らの一族が幕府に対して起こした反乱「和田合戦」にて朝比奈三郎は奮戦するも破れ、一族と運命を共にしたとされている。しかし、実は朝比奈三郎は敗色濃厚になった際に手勢を集めて鎌倉を脱出したとする伝説が残っており、実際に朝比奈三郎が逃げ延びたとされる抜け穴が洞窟の最深部に安置されている厄除け大師の奥に口を開けている。
後に田谷の洞窟は真言密教の修行窟として拡大されてゆき、室町時代末期に定泉寺が開山される。かの元冠の際には洞内にて鎮護国家の祈祷が盛大に行われたとの記録も残っている。窟内の彫刻も修行窟となってから次第に増えていったと考えられているが、江戸時代に入る頃に地震などの災害によって入り口が崩落、天保年間まで閉ざされることとなった。しかし、当時の住職寂照により洞窟内部の整備が行われ、更に新しく彫刻がなされて今の姿になったと考えられている。この整備工事にかかった期間は30年。当時から見ても長期にわたる大事業であった。
以降、田谷の洞窟は現在に至るまで人々の信仰を集めている。
本堂にて大人400円の拝観料を払うと、一人一本細いろうそくが手渡される。これを入り口で貸し出ししている手燭に差し、入ってすぐ側にある種火で灯して「行者道」とある看板を目印に進んでいく。足下や頭上に注意しながら進んでいくと、やがて多くの仏尊や壁画が姿を現してくる。
恐らく、何百年も昔から多くの人たちがここの仏たちを拝み、時に御利益に預かろうと触れたのだろう。多くの仏たちは顔がほぼのっぺらぼうになり、細部の彫刻も解らなくなるほどに表面が摩滅していた。壁に残るノミの跡も角が取れ、丸くなって久しい。 総延長1キロはある洞窟だが、実際に参拝できるのは約250メートルほどである。主要な尊像などの大半がこの区間に存在しており、他の部分は信仰上の理由や洞窟保存、安全上の観点から一般参拝客は立ち入り禁止となっている。
しかし近年、田谷の洞窟の評価はまっぷたつに割れている。
某怪奇怪談番組で有名なタレントがここを訪れた際に「恐ろしい場所だ」と称したため、若い人を中心に恐怖スポットや心霊スポットのようにとられているというのだ。その一方でパワースポットだともされており、「洞窟を撮影した写メはお守りになる」ほど強い力があるともされている。
やはり昔から信仰の場でもあったため、パワースポットの側面が強いとみる方が良いようだが、田谷の洞窟はお寺の境内に存在している神聖な場なので、騒いだりせず敬虔な気持ちで向かう方が良いだろう。
(田中尚 ミステリーニュースステーションATLAS編集部)